りょう》することが感ぜられ、それとともに、あの若き婦人の肢体《したい》が網膜《もうまく》の奥に灼《や》きつけられたようにいつまでも消えなかった。
2
翌年の春、僕は大学を卒業した。卒業に先立って僕達理科|得業生《とくぎょうせい》中の大先輩である芳川厳太郎《よしかわげんたろう》博士が所長をしている国立科学研究所から来ないかということであったから、友江田先生の意見を叩いてみた。友江田先生は大学に籍がありながら、同時に研究所にも席がある特別研究員だったから研究所の様子はよく知っている筈《はず》だった。
「……いいでしょう。君さえよいと思うのならね」と先生はしばらく間《あいだ》を置いて同意して呉《く》れた。僕は先生が二つ返事で賛成して呉れなかったのを不服に思った。それは勿論、先生の慎重なる一面を物語るものであったと同時に、「信濃町」事件(というほどのことではないかも知れないが)に於《お》ける先生の不審な態度も思い合《あわ》すことを止《や》めるわけには行かなかった。
四月になると、僕は研究助手として、はじめて国立科学研究所の門をくぐった。この国研は(国立科学研究所を国研と略称することも、其《そ》の日知ったのである)東京の北郊《ほくこう》飛鳥山《あすかやま》の地続きにある閑静《かんせい》な研究所で、四階建ての真四角な鉄骨貼《てっこつは》りの煉瓦《れんが》の建物が五つ六つ押しならんでいるところは、まことに偉観《いかん》であった。僕は第二号館にある物理部へ編入せられ九坪ほどの自室と、先輩の四宮《しのみや》理学士と共通に使う三室から成る実験室とを与えられた。そして研究は、国研の範囲と認める自由な事項を選定してよいと謂《い》うことで、四宮理学士と共に、特に所長芳川博士直属の研究班ということになった。四宮理学士は、背丈はあまり高くはないが、色の白いせいか大理石の墓碑《ぼひ》のように、すっきりした青年理学士で、物静かな半面に多分の神経質がひそんでいるのが一と目で看守《かんしゅ》せられた。僕よりは四歳上の丁度《ちょうど》三十歳で、友江田先生よりは矢張り四歳下になっていた。
僕は最初の一日を、今日から自分のものになった椅子の上にのびのび腰を下し、さて何を研究したものかと考え始めたが、一向に纏《まとま》りはつかず、考えれば考えるほど、今日の帰り路は、どう取って、定刻までに
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