中さんの右はずれの森の彼方に落ちた(三鷹方面)。その他煙を出した戦闘機四機ばかりあり。憎々しき敵の大編隊を北へ見送る。
 今日は英、晴、暢、それに亮嗣さんも垣根を越して田中さんの地所でこれを観戦す。昌彦も、落下傘が下りるのを壕から顔を出して見た。この落下傘、敵かと思ったが、あとでわかったところによれば陸軍の中尉(山田少尉ともいう)で、野砲連隊の近くに降り、電線にひっかかったが、顔面の少負傷で助かり、部隊へ収容されたという。
◯ラジオの停電で、途中より戦況不明となる。ただし十一時頃、空襲警報は解除となった。
◯大本営発表によれば、本日の敵機は「南方基地より発出せるもの、帝都附近へは百二十機、名古屋へは百五十機が来襲せり」と。
◯内閣は一昨日、辞表を提出した。小磯内閣は果してかけ声をかけただけで終り。三月十日の空襲の市街大延焼にて、疎開強化令を出して混乱を生ぜしめた失政軽からず。さらに四月五日、ソ連は日ソ中立条約存続の意志なきことを通告し来り(来年四月二十五日期限)、その余波もくらった形に見える。
 小磯内閣の退陣に当たり印象に残ったのは、米内海軍大臣の朗々たる声と率直な物の言い方、杉山陸軍大臣の年齢に似ぬ元気な、そして円い物の言い方、町田ノンキナトウサン無任相のぼんやりした顔、前田運通相の悪相、緒方国務相の疲れた顔、まずそんなところなり。こういう仕事をせぬ内閣は早く代わるに限る。思えば、今は亡き前文相二宮中将が、組閣間もなく国民学校第二学期の始まっていることを十日も忘れての放送に、大きなケチがついたように感じたが、それは本当であった。
 鈴木貫太郎海軍大将は、枢府[#天皇の諮問機関、枢密院の異称]議長の任にあったが、今度大命を拝した。七十八歳の高齢と聞くが、日本の国はどうしてこう年寄の御厄介にならないとたっていけないと、重臣たちは考えるのであろうか。腑に落ちない。今までそれで散々失敗していながら、戦時下最終の内閣を組立てるのだといわれながら、この老人の顔に出られては、われらの士気もあがらない。
 しかし一説によると、鈴木大将は最も永く天皇の御そば近くに仕えていたので、聖旨を理解し奉ることこの人に及ぶはなく、それで今度選ばれたのだと見る向きもある。
 それが本当なら、肯《うなず》けることだ。しかしこの鈴木大将に御願いしなければならぬほど、日本には逞しい政治家がいないのであろうか。青年日本の姿は遂に見られないのであるか。残念至極である。

 四月九日
◯建物疎開で、町の変貌甚し。三軒茶屋より渋谷に至る両側に五十メートル幅で道を拡げるというが、それを今盛んにやっていて、大黒柱に綱をつけ、隣組で引張って倒している。そして燃料がたくさん出来、手伝いに来た人達に与えている。雨が降っているが春雨だ、たいして苦にならぬ。
 外食者用食堂[#戦時下食糧統制の一環として配給された、外食券を利用する食堂。現金があっても、券がなければ食べられなかった]とか、銀行とか、配給所が、疎開延期で残っている。
 各部隊から兵隊さんが出て手伝っている。壊した家屋は、やはり焚木用として隊へ持ちかえる。
◯停留場や駅の風景を見れば、三月十日前後や三月二十日前後(これは疎開強化、国民学校授業停止の発表があった頃)に比べると、だいぶ静かになったようだ。
◯新首相、鈴木貫太郎大将は、昨夜新任挨拶を放送した。「政治には素なり、八十に垂んとする老躯をひっさげて、諸君の陣頭に立つは、自ら鑑みて悲壮の感あるも、大命を拝せし以上は陣頭に立ちて突進せん、諸君はわが屍をのり越えて進撃せられたし、但し大いに若返ってやります」といった要旨。なお記者に所懐を語って曰く、「勝てると思う。日露役のときも重臣は勝てることはおろか、多分負けると考えていた。万が一にも敵を撃退し得ないかも知れぬと考えていた。だが頑張りが勝ったのだ。硫黄島が玉砕、占領されたことも負けとは思わぬ。敵アメリカに対し、精神的に大恐怖を与えたのがわが戦果で、この点勝ったといってよい」などと、勝てる自信を述べていた。
◯昨八日十七時、大本営発表で久方ぶりに軍艦マーチと陸軍マーチが響く。沖縄本島周辺にここ旬日あまり群って退かぬ敵艦船群に対し、わが特攻水上隊及航空隊が突入し、わが水上隊も戦艦一、巡一、駆三を撃沈した。かくて敵艦十五隻撃沈、十九隻撃破、その他未確認のもの少からずという戦果を掲げ、ために敵艦船は遂に沖縄本島の周辺から逃げだしたとある。リスボン経由の外電も六日、七日のわが猛攻を伝えているし、島上の敵軍も「ここは地獄を集めた地獄だ。あと二週間これが続けば、この戦は悲劇に終ろう」と悲鳴をあげている由。そのままには受取り兼ねるが、すさまじい戦闘がいよいよ始まり、決戦の決を見るのももうわずかの後に迫ったことを思わせる。
 尚水上艦隊の特攻隊はこれが初めて。特に戦艦の特攻隊とは、戦闘の壮観、激烈さが偲ばれ、武者ぶるいを禁じ得ない。

 四月十三日
◯アメリカ大統領のルーズベルト急死す。脳溢血と発表された。
 日本時間にして、彼の死は十三日の金曜日に当る。

 四月十四日
◯昨夜二十三時頃、わが横鎮は関東海面に警報を出したが、果して敵一機は房総に入り、つづいて敵大挙し、三月十日以来の帝都市街夜間爆撃となった。
 敵はルーズベルトの死に関連して、この挙をあえてなしたものと見受ける。
◯大本営発表によれば、来襲機は百七十機で、四時間にわたり波状投弾し、焼夷弾の前に爆弾を投じた。
 宮城大宮御所の建物にも損傷あり、まもなく消し止めた。両陛下と皇太后陛下は御無事とのこと。明治神宮は本殿と拝殿とが炎上した。鈴木首相の放送に「敵は計画的にこの暴挙をなした」とある。
◯ラジオ報道によると、豊島、板橋、王子、四谷が、もっとも多く燃えた由。しかし死傷者は少ないとの事である。去る三月十日の空襲は死傷がひどく、昨日も四十七ヵ所で三十五日の供養が行なわれ、僧侶は巻ゲートルで、トラックにのって廻ったそうである。
◯本日の省線不通箇所は、上野→池袋→新宿間、新宿→荻窪間、神田→市ケ谷見附間、池袋→赤羽間、もう一つ足立区方面(わすれた)。
◯昨夜の炎上の状況は左図の如くであった。
[#カット「手書きの地図」入る。41−下段]
◯戦果の発表、撃墜四十一機、損害を与えしもの約八十機なり。
◯四月十一日の午前のへんな爆撃は今度の予習だったかも知れない。
◯あのときは一トン爆弾を、荻窪の中島本社へ落とした由である。
◯昨夜の軍情報はすっきりしなかった。「後続機に対して警戒中なり[#「警戒中なり」に傍点]」というナマぬるい放送をして置きながら、間もなく「大挙来襲に敢闘せよ」と出し、空襲警報を発令した。そのときは第一機が投弾して、もう市街は炎々と燃えていたのである。
◯今朝、余燼《よじん》が空中に在るせいか、天日黄ばんで見えたり。
[#ここから1字下げ、罫囲みで]
 ◯焼け跡も疎開も知らぬ桜哉
 ◯分解の敵機も散るや花の雲
[#ここで罫囲み終わり]
◯去る四月五日、永田徹郎大尉の奮戦談が新聞に出た。その前日とその日の朝のラジオでも放送したとか。徹ちゃんの健闘はうれし。毎朝その武運長久を一同して祈っているのだ。(輸送船一隻撃沈)その前に戦艦二隻やったらしい(朝子の手紙によると)。
 その後、朝子の手紙が来て、四月五日これから出撃する主人を送っているとあり、気を揉んでいる様子が見えるようだ。きょう手紙にて激励をして置いた。
◯都電運転系統は現在左の通り動いている。
[#ここから1字下げ]
△品川→日本橋 △三田→日比谷 △目黒→日比谷 △五反田→金杉橋 △渋谷→金杉橋 △渋谷→青山一丁目 △渋谷→六本木 △中目黒→金杉橋 △四谷三丁目→泉岳寺 △四谷三丁目→浜松町 △新宿→荻窪
[#ここで字下げ終わり]
◯列車乗車制限(軍公務、緊急要務者以外は乗車券を発売せず)
[#ここから1字下げ]
◯東海道線=東京→小田原 ◯中央線=東京→大月 ◯東北線=東京→小山 ◯高崎線=大宮→熊谷 ◯常磐線=日暮里→土浦
[#ここで字下げ終わり]

 四月二十七日
◯この日記をしばらく休んだ。休んだわけは忙しさのためと、空襲の閑散化のため。といっても、帝都空襲が閑散化したわけであって、B29の日本空襲が減ったわけではない。むしろこのごろは毎日、九州の飛行場を爆撃に来るという執拗《しつっこ》さ、熱心さである。わが特攻隊の出鼻を挫《くじ》かんためであることはいう迄もない。
◯さて、休んでいた間にも、帝都への大爆撃はあった。それは去る四月十五日深更より十六日暁へかけての夜間爆撃で、蒲田、荏原、品川、大森をやられ、大小の工場がほとんど全滅したとのことだ。なおこのとき川崎もかなりの被害があった。
◯蒲田の工場は当然疎開したものと思っていたが、欲ばっていて親工場へ吸収される値段の吊上げを試みつつあり、そしてやられて元も子もなくしたものが軒並だ。個人工場の損失ではない、国家の大損失であり、猫の手さえ借りたい刻下の沖縄大決戦の折柄、戦力をそぐこと甚しい。
◯吉田晴児の工場も焼けたらしい。協電舎もそうらしい。橋本さんの広辺電気もそれ。枚挙にいとまあらずである。
◯去る四月二十五日の新聞に、被害の総合結果の発表あり。
 東 京  五十万戸  二百十万人
 大 阪  十三万戸  五十一万人
 名古屋  六万戸   二十七万人
 神 戸  七万戸   二十六万人
 これ下村新情報局総裁の手腕のあらわれと見える。
 此の発表で、帝都に関しては「三月十日は不幸にして風が余りに強かったため、同日だけでも焼失戸数や火災による死傷者数は相当にのぼった」こと「大部分焼失した区域は、浅草、本所、深川、城東、向島、蒲田」であり、「その他相当焼けた区は下谷、本郷、日本橋、神田、荒川、豊島、板橋、王子、四谷、大森、荏原、品川」である。
「川崎市は市街の大部分を焼失」
「大阪では西成区、西区、南区、北区、天王寺区、湊区、浪花区、大正区が被害が大きい」
 名古屋では「千種区、東区、中区、熱田区、昭和区、中村区、中川区が被害大きい」
 神戸では「兵庫区、湊区、湊東区の大部分を焼失した。また葺合、神戸、須磨、林田、灘の一部分焼失」
◯四月十五日、十六日の夜間空襲のときはちょうど神戸の益三兄さんが泊っていて、これを見物した。その前の豊島区などの焼けたときほど大きくは見えなかったが、初め品川上空に照明弾を落としてそれからずんずん東へ南へひろがり、駒沢のが一番近く、そこへ落ちる頃はこれはいよいよ来るかなと思わせた。
◯大橋のバス通りのすぐ左側に於いて千軒ばかり焼けた。
◯大橋の、こっちから行くと左側の堤防に不発弾がおち、電車は大橋→渋谷間が五、六日止まり、その間歩かせられた。
 最後に工兵隊が出て、爆発させたが、そのときの工兵隊はがけ下を覗くためにこんなものを用いて居た。
[#カット「手書きの図」入る。44−上段]
◯天皇陛下御|宸念《しんねん》。忝《かたじけな》くも金一千万円也を戦災者へ下賜せらる。
◯賀陽宮、山階宮、東久邇宮の三宮家も御全焼。
◯明治神宮本殿、拝殿も焼失。千百数十発の焼夷弾のかす[#「かす」に傍点]が発見されたという。
◯大下宇陀児《おおしたうだる》[#推理小説家]邸も焼けたと角田(喜久雄)[#小説家]君より聞き、見舞に行った。涙をのむのに骨を折りながら、奥さんと二時間あまり話した。彼は大元気で、家にも帰らず、町の皆さんといっしょに焼あとに起居しつつ、復興につとめている由。防空壕へ衣類を入れてあったためこれが助かったが、他のものはほとんど一物もとり出さなかったという。
 当夜、このあたりに旋風が起こり、町の人々を一層恐怖させたとの話。大下邸のすぐそばの焼けた大ケヤキの高い梢の上に、バケツやトタン板がちょこんとのっているのも、それを物語る跡である。
 また池袋の武蔵野線のホームのトタン屋根が、変な具合にめくれていて、車中より私は首をひねったが、これも旋風のためとわかった。
 大下君は、残留せる四百名の人々をはげまし「新雑司ケ谷
前へ 次へ
全18ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング