自分が伏せをしたとき、横を陸軍の将校が通ったが、その人が今はこの脚だけとなったという事。その上の方はどうしたかと思って見まわしたが、それはどこにも見えなかったという。
◯この有楽町では、鉄カブトをかぶった首がころころ転っていたという。防空壕から首だけ出していたので、首だけやられたのであろうという話。しかし本当はそうではなく、立っていて、首だけ爆風にやられたのであろう。
◯いつも大慈さんから頂いていた宗一郎さんの奥さんの御里で、水飴の製造をやっていられたお家が焼けたそうな。やっぱり二月二十五日。お家はやっぱり神田にあったという。
◯牛肉二貫匁が入るというルートの話がこの前あったが、この店もやっぱり二月二十五日に焼けた由。二・二五爆撃はかなりひびく。
三月九日
◯去る三月五日、敵は午前零時から二時まで、十機が一機ずつ帝都へ侵入した。めずらしいことである。
その翌日には、同様の型式で大阪方面へ侵入した。
新聞は「これこそ夜間大編隊来襲のウォーミング・アップなり」と報じ、一般の注意を喚起した。
そのうち、月の明るい晩にやるつもりであろう。しかし当分はまっくらで、敵には盲爆以外の手なし。
◯爆撃の直後、身近かにとんで来たものはすてきなケシゴムたくさん、百円札の束、反物など。これは鈴木さんの友達の話である。
◯首がとびこんで来て、われに向かい丁重に挨拶をしたという話もあるとて、村上先生大いに笑う。
◯艦載機来襲以来、待避壕はかなりものものしくなった。相当土をかぶり、ふたのないものは数を減じた。しかしまだまだである。
三月十日
◯昨夜十時半警戒警報が出て、東南洋上より敵機三目標近づくとあり。この敵、房総に入らんとして入らず、旋廻などをして一時間半ぐらいぐずぐずしているので、眠くなって寝床にはいったら、間もなく三機帝都へ侵入の報あり、空襲警報となり、後続数目標ありと、情報者は語調ががらりと変わる。起きて出てみれば東の空すでに炎々と燃えている。ついに、大空襲となる。
◯発表によれば百三十機の夜間爆撃。これが最初だ。
◯折悪しく風は強く、風速十数メートルとなる。
三月十三日
◯昨暁名古屋が大挙B29の夜間爆撃を受けた。東京夜襲より二日後で、ピッチをあげている。今度は風が強く、全く利敵風であった。
◯十日未明の大空襲で、東京は焼死、水死等がたいへん多く、震災のときと同じことをくりかえしたらしい。つまり火にとりまかれて折重なって窒息死するとか、橋の上で荷物を守っていると両端から焼けて来て川の中へとび込んだとか、橋が焼けおち川へはまったとか、火に追われて海へ入り、水死又は凍死したとか、川へ入ったが岸に火が近づいたので対岸へ泳いで行くと、そこも火となり水死したとかいう話が下町の方にたくさんあり、黒焦死体が道傍に転り、防空壕内で死んで埋っているのも少くないとの事である。
◯この前の雪の日の盲爆(二・二五)に八万の罹災者を生じたが、今度はその数倍らしい。
◯今日は三日月だが、罹災者の姿痛々しく、街頭や電車内に見受ける。軍公務通勤者以外は切符を売らない。
◯三月十日に焼けた区域は随分広いらしい。
わかっているものだけでも、九段上、番町界隈、銀座一丁目より築地ヘ。新橋駅より新橋演舞場の方へかけて、白金台町附近、高樹町、霞町、浅草観音さま本堂、本郷三丁目より切通坂へかけて、秋葉原界隈、田園調布界隈、司法省、茅場町、日本橋白木屋、高島屋の地下町の方面は次々と焼けたらしい。
◯読売新聞の記事に、罹災区と引受区との表が出ているが、これにより罹災区が十区ある。しかし、この中には麹町区は焼けながら入って居らぬことからみて、もっと多数の区がやられていることは明白だ。
[#ここから1字下げ、横組みで]
(罹災区) (収容区)
日本橋 赤 坂
荒 川 大 森
下 谷 世田谷
京 橋 目 黒
深 川 四 谷
本 郷 中 野
浅 草 杉 並
向 島 板 橋
本 所 王 子
城 東 荏 原
―――――――――――
以上二十区
麹、麻、小、牛、芝、神、
豊、渋、足、葛、品、蒲、
渋、江、淀
[#ここで横組み終わり]
◯若林国民学校へも罹災者一千名を収容、新校舎に入る。暢彦も十三日までで、あとやすみ。晴[#晴彦]は当分登校。
◯偕成社も焼け落ちた。出版企画中の「成層圏戦隊」もこれにて無期延期。
◯吉祥寺駅にて山東先生にお目にかかる。
[#カット「先生の恰好」入る。35−下段]
◯報道班員の身分証明書で切符を買って通る。「報道班員」は近来誰でも知っていてくれるので、早分かりがするようだ。
◯見舞状を出す。今村、朝、摂津、久生、荒木。
◯味噌の配給がとまった。罹災者へまわしたためとある。この隣組の清水、友野両家へも罹災者が入って来られた由。
◯昨夜、疎開すべきや否やについて英と協議す。但し決まらず。
◯昨夜、ねえやの米ちゃん、松ちゃんを解雇し、親もとへかえす。来る十五日頃、こういう人達へ徴用があるとかで、両人がことのほか心配している故、英が解雇の決意をしたものである。今は朝子がいるのですこしはいいが、二十日に朝子も鹿児島へ行くので、そのあとは忙しくなろう。
三月十四日
◯浅草へ行って三月十日の空襲のあとを見る。震災に比べて、延焼の時間が短かかったので(震災は三日間で焼け、今度は六時間位で焼けた)惨害もひどかったことがうなずける。こんなに焼けているとは思わなかった。浅草寺の観音堂もない、仁王門もない、粂《くめ》の平内殿は首なし、胸から上なし、片手なしである。五重塔もない。
◯吾妻橋のタモトに立って眺めると、どこもここも茫々の焼野原。
◯象潟二丁目の或る隣組では、四十五人の人員が二十人しか生存していない。
◯水の公園では押されて人々が倒れると、その上に将棋だおしとなって多勢が圧死し、そこへ火が来て、一層凄絶なこととなった。佐川のおばさんは、かかる折、息子とつないでいた手を放して倒れて下敷となり、息子さんの懸命の努力に拘らず母を救い出し得ず、そのままとなった由。
◯大正震災のときは、それでもかなり今戸の川ぷちに家が残ったものだ。今度は完全に焼けてしまった。痔の神様ももちろんなし。
◯浅草の田中さん、早期に言問橋を渡って左折し(牛の御前と反対方向)そこで助かった。但しその一廓を残し、ぐるりは焼けた。
◯厩橋の常田久子も、赤ちゃんを背にしてにげ、新大橋の下に何時間もがんばって、ようやく二つの命を拾った由。
◯浅草は稲荷町から上野駅前へかけて焼け残っている。他に人家を見ず。
◯二時間半歩いて上野駅へ達した長蛇のような女工さんの群あり、集団引越だそうな。
三月二十一日→二十六日
◯朝子を鹿児島へ送っていった。往復六日間、列車に乗りづめ。
◯鹿児島は最近敵機動部隊の来襲を受けたばかりのところで、各家とも城山に横穴掘り、また家財を焼かないための地窖《あなぐら》掘りに忙しい。しかし町はどこも焼けたところを見なかった。人心も東京にくらべればすこぶるのんびりして見えた。
永田のお父さんとお母さんとで、この忙しさの中に餅をついてくださった。もち粟《あわ》の餅、ことにうまし。お土産にももらっていく。
◯鹿児島でレモンを売っているのをみつけて十五個買った。一個十四銭ほど、やすい、そしてうまい。
◯桜島へ敵機が二機とか四機とか衝突し、燃えていたそうな。
◯鹿児島行の列車で、沖縄本島へ帰る少尉さんに馴染みとなる。「いずれ来るでしょう、しかし今は内地の方々には済まんようないい生活をしていますよ、砂糖も酒もふんだんにありまして、砂糖などすぐ一キロぐらい、ペロリと甞《な》めてしまうです……」など、話の上手な親しみ深い勇士だった。内地へ連絡に来て、これから鹿児島に入り、飛行機で飛んで行くのだという。まだ四、五日はかかるといっていた。
沖縄のこの前二回の艦載機の来襲の話も聞いた。「敵の奴、飛行場の偽飛行機や偽戦車に銃撃をくりかえすのですよ。戦車があまり焼けないので、こっちから決死隊を一人出し、油をもたせてやって一台を焼きました。すると敵の奴よろこびやがって、それからのこりの戦車へ来るわ来るわ……」などという朗らかな話や、近く敵襲の警報が入ると、滑走路に小屋を運搬していって建て、村落と化して敵の目をごま化す話など、たいへん面白かった。この勇士は、門司から鹿児島行の列車で私たち両人をたいへん世話してくれた。(敵は沖縄本島へ二十日に上陸した。この勇士殿は帰れたかどうか?)
◯往路、車中より神戸の南部の工場地帯が今もなお炎々と燃えつづけているのを見て、「畜生、かたきをうつぞ」と心に叫ばしめた。帰途は車窓が山側に位していたので肝腎の南側の方は見られなかった。しかし山側を見ていると、須磨迄は大丈夫であったが、林田区に入ると俄然《がぜん》大きく焼けていた。三菱電機の研究所のあった建物も焼けていた。湊川新開地も焼け、福原も焼けていた。市電の南側が少し残って、神戸駅迄に及んでいる。
裁判所焼け、となりの市庁は無事。それから東へ行って北長狭の辺、三宮の辺が焼けていた。県庁は残っているが、菊水は空し。惜しいことだ、あのコレクションは。さらに東へ行って元神戸一中に至るあたりが焼け、グラウンドで延焼を喰いとめている様子。
さらに東へ行って、御影が焼けている。線路ぞいに焼けていて、元の朝永の家も焼けてしまったように見える。
岡東の話では、一中も三中も焼けたというが、とにかく山の手は静かに残っていて、なつかしい神戸の面影を見せていた。
◯大阪はどこが焼けているのか車窓からは見えず。(話によると西区、天王寺区、大正区等が焼けた由)
◯名古屋も案外たくさん残っている。その前夜また空襲があったのだそうだが、車内で夜を明かした私たちは知らなかった。熱田の辺も、山側は大した被害なし。
◯無事空襲の間をぬけて帰りつく。
◯上海から帰って来たある人の奥さんからパンをもらった。カラカラに乾いたパンであるが、これ一個七十三円という。(奥さんにおにぎり二つ進呈したそのお礼なり)
四月二日
◯今暁、敵大編隊来襲。立川方面へ投弾す。照明弾と時限爆弾を落としたのは今回が初めて。
時限爆弾は三十分位後に爆発する。長いものは翌日になって、どんどんと硝子窓をひびかせて爆発していた。
帝都に被害なし。
四月四日
◯例の丑満時《うしみつどき》、敵大編隊来襲す。はじめ大部分は関東北部へ行ったのであるが、帰りに帝都を北から南へ抜け、低い雨雲の下に眠っている帝都を爆撃した。多くは爆弾。それに時限弾も混入。その上焼夷弾もあった。地響きはする、雨戸、硝子はとびそうに鳴る。このすごい響きは、雨雲が低いためにすごい反響を起したもの。雷鳴のときに似ていた。
感じでは、どうやらうちが中心になっているらしく、東西南北めちゃめちゃに投弾されたように思い、キモを冷やしたが、夜が明けて聞いてみると世田谷に投弾はなく、近いところでも新宿のあたりらしい。今度は横浜、川崎もやられたらしい。渋谷―池袋間も不通。ヨコスカ線は大塚から出ているらしい。桜木町附近相当被害ありし模様。
いつも牛乳を貰いに行く国分寺の牧場も、前のやつに一方をやられ、今度のに反対側をやられ、自分のところだけは安全だったが、すさまじい跡が見えたと、養母が帰って来ての話。
四月七日
◯本日朝七時四十分に警報。「敵大編隊来襲、八時二十分頃本土着のヨテイ」と。
すぐ警戒に立つ。用意万端ととのえたが、敵機は仲々来らず(後で考えると、敵はカムフラージュに錫箔《すずはく》をまいたらしい、そしてそのかげに集結するためかなり時刻がたったらしい)やっと九時半頃百機ばかりの大編隊となって南より北へとぶ。
◯高射砲はかなり南で射撃を開始し、わが家上空に近づいたときには、もう撃ち方やめとなる。
それに代って味方の戦闘機の攻撃は激化し、たちまち一機煙をはきだし、そのうちにふらふらし、空中分解して火の塊となる。万歳を叫ぶ。他の一機も機首を下にして、田
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