。離すどころの騒ぎではなかった。
 ミチミは唇を、ワナワナ慄わせていた。その下ぶくれの唇を、やがてツーンと前につきだしたかと思うと、
「莫迦――」
 と只一言。叩きつけるように云った。
「これミチミ、何をいうんだ――」
 ミチミはツと身を引いたかと思うと、彼女のうしろに立っていた二十歳あまりの、すこぶる長身の青年の、オープンの襟に手をかけて、何ごとか訴えるような姿勢をとった。
 その男はフンフンと、彼女の話を聞いているようであったが、やがて杜の方に向って錐《きり》のように鋭い嫌悪《けんお》の眼眸《がんぼう》を強く射かけると、長い腕をまわして、ミチミの身体を自分の逞《たくま》しい肩の方へ引きよせ、そしてグッと抱きしめた。
「――さあ行こう、ミチミ」
 男はそういって、杜に当てつけがましく、ミチミを抱かんばかりにして、焼け橋梁《はし》の上を浅草側に向って立ち去るのであった。
「ミチミ――」
 杜は魂をあずけた少女ミチミの名を、もう一度声に出す元気もなくなって、わずかに口のなかでそう叫んだ。いやいや、おお愛するミチミ、私の魂であるミチミ! という呼び方も、いまは自分だけのものではなくなったら
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