ひどかった。全身泥まみれとなり、反面にひどい火傷を負った男がフラフラと歩いていた。これに聞くと、緑町|界隈《かいわい》の人間はみな被服廠《ひふくしょう》で死に、生命をたすかったのは自分をはじめ、せいぜい十名たらずであろう――などといった。
被服廠の惨状は、とうてい筆にするに忍びない。――お千は、オイオイ声をあげて泣いた。やがて声だけはたてなくなったが、彼女ははふり落ちる涙を、何時までたってもとどめ得なかった。
「ああ、みんな死んじゃった。――あたし一人、後に残されたんだ。おお、これからどうしたらいいだろう」
両国橋の袂までくるとお千は、そういってまた声をあげて泣きだした。そして緑町の方を向いて合掌し、くどくどとお念仏を誦《じゅ》した。
こうして、杜とお千との寄り合い世帯が始まった。二十五の若い男と、三十二の大年増の取組は、内容に於て甚だ錯倒的であったけれど、外観に於て、さほど目立たなかった。
二人は、いろいろなところに泊った。
興奮と猟奇にみちた新しい生活がつづいた。二人は夫婦気取りで、同じ部屋に泊ったが、それは便宜のためであって、二人の身体の関係は、長く純潔に保たれていた。
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