に属する向島にあった。そして同じく広々とした焼跡に立つバラックであって、どっちを見渡しても真暗なところであった。
 ミチミはバラックの窓の灯を指して、彼を二十間ほど手前で待っているように云った。そして彼女は、スタスタとバラックに近づき、やがて戸を開いて内側に姿は見えなくなった。杜はポケットの底を探って一本の煙草を口に咥《くわ》えた。
 ミチミはなかなか出て来なかった。
 杜は、さっき道々で彼女の云ったことを考えていた。――有坂青年に奪われている彼女の秘密物品を取り返すのを手伝って呉れ、それはバラックの中にある古井戸の中に、大きな石に結びつけて沈めてあるから、手伝って綱を引張って呉れ――というのだ。一体どんな秘密物品を彼女は有坂に奪われているのだろう。ミチミが持っていそうな秘密物品とは、どんなものが有り得るだろうかと、昔の生活をいろいろと思い浮べてみた。しかしどうも心あたりがなかった。ラブレーターであろうか。日記帳であろうか。それとも或る種の誓詞《せいし》であろうか。写真の乾板《かんぱん》でもあろうか。でも以前にはおよそそんなものを、彼女が持っている様子はなかった。もしそんなものが有るとすれば、それは恐らく、震災後に出来たものに違いない。杜は急に、それを見たくなってきて仕様がなかった。
 そのとき、ジャングルから黒豹が足音を忍んでソッと獲物の方に近づいてくるように、ミチミが静かに静かに戸口から現れた。彼女は一本の長い綱を持っている。それは戸口の中まで続いているのであった。
「――あの人が、今いい気持に眠っているのよ。目を覚まさないように気をつけてネ。そこであたしがお願いするのは、この綱よ。これをあたしが内側から合図をしたとき、綱が千切られるくらいウンと引張って向うへ駆けだしてネ。四、五間も走ると、きっと綱が何かに引懸ってそれ以上伸びなくなるから、そこんところで、ジッと持っててネ。あたしが帰ってくるまで、離しちゃ駄目よ。いいこと」
 ミチミは杜の耳許《みみもと》で、声をひそめて説明した。彼の感能はそのとき発煙硝酸のようにムクムク動きはじめた。ミチミをどうしても自分のものにしないと、自分の心臓が痙攣を起してしまうかもしれないと思った。
 ミチミが、またバラックの中にかえってゆくと、杜は綱を両手でソッと握った。綱を握っていると、なんとなく変な気持になってきた。この暗黒の焼野原の真ン中で、自分はいま何をしようとしているのだろう。なんだか非常に恐ろしいことを手伝っているような気持がして、彼は思わずブルブルと身慄《みぶる》いした。
 途端に綱を握っている手に、ピーンと手応えがあった。ミチミがバラックの中で綱を引いて合図をしたのであった。
「ウン、今だナ――」
 彼は綱をグッと握りしめると、後を向いてトットと駆けだした。大地に躓《つまず》いて倒れるかもしれないと思ったほど、渾身《こんしん》の力を籠《こ》めてウウンと引張った。
 ドーンと鈍いそして力づよい手応えが両腕を痺《しび》れさせた。とうとう沢庵石が井戸から上ってきたのであろうか。彼は綱端を両手に掴み、身体を弓のように反《そ》らせて、バラックの中に潜む大きな力に対抗していた。でもなんという奇妙な手応えだろう。どうも沢庵石を引張りあげたにしては、いやに反動がありすぎた。なんだか沢庵石が生き物に化けて綱の端でピンピン跳ねまわっているようであった。
 ミチミが杜の方に駆けだしてきたのは、それから十分ほど経った後のことだった。
「もう大丈夫よ。その綱の端を、貴郎《あなた》の前にある切株に結んで頂戴な」
 ミチミは、しっかりした調子で、それを命じた。
 杜はミチミに手伝わせて、そのようにした。
「さあそれでいいわ。――ではバラックの中にあるあたし[#「あたし」に傍点]の必要なものを片づけましょう。一緒に行って、片づけてくれない」
「ウン、行ってもいいかしら」
「もう大丈夫よ。有坂は、もうなんにも邪魔をしないわよ」
 杜はミチミの言葉を深く考えもせず、彼女について、恐る恐るバラックの入口をくぐった。バラックの中には、暗い電灯が一つ天井から下っていた。彼は極めて自然に、自分がピンと引張った綱の先を眼でもって追っていった。その綱は上向きになって、梁《はり》の方に伸びていた。その梁の向うに、彼は全然予期しなかったものを見た。それは紛れもなく、宙にぶら下った男の全身だった。杜はそれが何者であるか、そして何をしているのかを知った瞬間に、愕きのあまりヘタヘタと土間に膝をついた。
「ウム、これは有坂青年だ。これはどういうわけだッ。――」
 ミチミは、ジャンヌ・ダルクのように颯爽《さっそう》として、杜の前に突立った。そして氷のように冷徹な声でいった。
「これがあたしの自由を奪っていたものよ。この有坂さんは、この前は今
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