さしたんだネ。誰を怨《うら》むこともないよ」
杜は心の底から懺悔《ざんげ》の気持になった。
「そうネ。世の中には、自分の考えどおりにならないことが沢山あるのネ。今のあたしもそうなのよ」
ミチミはそれを鼻にかかった甘ったるい声でいって、眼を下に俯《ふ》せた。そこには単衣をとおして、香りの高いはち切れるような女の肉体が感ぜられる、丸々とした膝があった。杜はムラムラと起る嫉妬の念を、どう隠すことも出来なかった。
「もうわざとらしい云い訳なんかしないでいいよ。君は正面きってあの長髪の御主人の惚気《のろけ》を云っていいんだよ」
「まあ、――」
ミチミは張りのある大きな眼で杜を見据えた。
「貴郎《あなた》はあたしのことを誤解しているのネ。きっと御自分のことを考えて、あたしの場合も恐らくそうだろうと邪推しているんでしょ。そんな勝手な考え方はよしてよ。あたしムカムカしてきてよ」
「いやにむき[#「むき」に傍点]になるじゃないか。むき[#「むき」に傍点]にならざるを得ないわけがありますって、自分で語るようなものだよ。もうよせったら、そんなこと。僕は一向興味がないんだ」
「先生――」
たまりかねたかミチミは、いきなり中腰になって、杜の前に飛びついてきた。彼は全体が一度にカーッと熱くなるのを覚えた。
「先生、あたしはもともとそんなに節操のない軽薄な女なんでしょうか。いえいえそれは全く反対です。先生はそれをよく御存知だったじゃありませんか。先生がどんなことをされていても、あたしはそれに関係なく、いつも純潔なんです。魂を捧げた方に、身体をも将来をも捧げますと固く誓った筈です。それをどうしてムザムザあたしが破るとお考えなんです。あたし、ほんとに無念ですわ。無念も無念、死んでも死に切れませんわ。あたしが先生のために、どんな大きな艱難《かんなん》に耐えどんなに大きな犠牲を払ってきたか、先生はそれを御存知ないんです。しかし疑うことだけはよして下さい。少くともあたしの居る前では。――あたしはいつでも先生の前に潔白を証明いたします。今でももし御望みならば――」
「おっと待ちたまえ。君はまるで、夢の中で演説しているように見えるよ。長髪の青年氏と同棲していて、なんの純潔ぞやといいたくなる。もっとも僕は一向そんなことを非難しているわけではないがネ」
「まあ、そ、それは、いくら先生のお言葉でも、あんまりですわ、あんまりですわ。――」
ミチミは子供のように声をあげて、その場に泣き伏した。
杜は、曾《かつ》て知っていたミチミとは別の成熟した若い女が、彼の前で白い頸を見せ、肩を慄《ふる》わせて泣いているように思った。それはなんとはなく、彼の心に或る種の快感を与えるのであった。
ミチミは、泣き足りてか、やがて静かに身体を起した。両の袂を顔の前にあて、その上から腫《は》れぼったい瞼を開くような開かないようにして、杜の方を見た。
「――覚えてらっしゃい」
ミチミは、たった一言云って、膝を立てて立ち上ろうとした。しかし彼女はヨロヨロとして畳の上に膝をついた。
「ウム、――」
そのとき杜は、不思議なものを見た。ミチミの白い脛《すね》の上から赤い糸のようなものがスーっと垂れ下ってきて、脛を伝わって、やがてスーっと踝《くるぶし》のうしろに隠れてしまった。血、血だ!
見れば畳の上にも、ポツンと赤い血の滴りが滾《こぼ》れているではないか。杜はドキンとした。
「おい、ミチミ待て――」
ミチミはそれが聞えぬらしく、外へ出てゆきかけたが、何を思ったか、また引返してきて、杜の前に突立った。そしてまるで別人のような態度で、恰《あたか》も命令するかのように、
「さあ、これからあたしと一緒に行くのよ。あたしのうちに行って、そしてあたしの奪われているものを、貴郎《あなた》に手伝ってもらって取返すのよ。そしてあたしは、どうしても貴郎から離れないようになるのよ。さあ行ってよ、早く――」
杜はミチミの意外な力に引張られて、やがて家を後にした。
ミチミは道々、杜にくどくどと説いた。
ミチミがどうしても有坂――長髪の青年のこと――から離れられないわけは、彼のためにミチミの所有になる或る重大なる秘密物品が有坂の手によって保管されていることだ。それを取戻さない限り、有坂の許を離れるわけにはゆかない事情がある。有坂の手から、ぜひそれを取返さなければならないが、その品物は彼女のバラックの屋根の下にある一つの壊れた井戸の中に、大きな石に結びつけて綱によって垂らしてある。ミチミの手では、この重い石をどうしても引上げられないから、今夜杜に手伝って貰いたい。――というのである。
杜は承知の旨《むね》を応《こた》えた。
12[#「12」は縦中横]
ミチミの住居《すまい》は、隅田川の同じ東岸
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