ち半次は、当日お千をまた尋ねて、昔の如き情交を迫り、遂に目的を達したことは、お千の死体解剖によって明白である。
 しかれどもお千は、今後の情交を拒絶し、もし強《しい》てそれを云うようであれば、半次の旧悪の数々とともに、彼の居所をその筋へ密告するからと脅迫したところから、半次は今はもうこれまでなりと思い、お千をくびり殺したものである――というのである。
 これに反して、杜のアリバイは確実であった。なにしろその日はずっと会社に居り、そして会社の門を外に出たのが午後十時だというから、お千の死に無関係であることが証明された。
 半次はお千殺しを頑強に否認しつづけたが、遂に観念したものか、とうとうそれを白状してしまった。係官はホッと息をついた。そしてやがて、半次を公判に懸ける準備に急いだのだった。
 杜はずっと早く釈放せられて、思い出のバラックに、只一人起き伏しする身とはなった。
 静夜《せいや》、床のなかにひとり目覚めると、彼は自分の心臓がよく激しい動悸をうっているのを発見することがあった。そういうときには、きっとお千の最期《さいご》について何か追っ懸けられるような恐ろしい夢を見ていた。
 或る夢では、杜自身が犯人であって、お千を殺した顛末《てんまつ》を検事の口から痛烈に論告されているところを夢見た。また或るときには、何者とも知れない覆面の人物が犯人となっていて、その疑問の犯人から彼が責《せ》め訶《さいな》まれて苦しくてたまらないところを夢見たりした。前者の場合よりも、後者の一方の夢がずっと恐ろしかった。
 恐ろしい夢から覚めた彼は、きまって寝床のなかにいて、今度は現実にお千殺しの顛末を考え直すのであった。――果して半次がお千を殺した真犯人であろうか!
 敷島の吸殻といい、煙草入れといい、それからまたあの前日の会見の捨《す》て台辞《ぜりふ》といい、半次の日常生活といい、十六貫もあろうというお千の身体を大木に吊り下げたといい、半次を真犯人と断定する材料は決して少くなかった。それにも拘《かかわ》らず、杜はなんとなく半次が真犯人でないような気がしてならなかった。
(どうしてそんな風に思うんだろう?)
 杜は自分の心の隅々を綿密に探してみるのであった。別にこれこれと思うものも見当らないのだ。だがそのうちに、もしかするとこれかも知れないと思うことがあった。それは、あの事件の後で、杜が現場に落ちていた血痕を拭《ぬぐ》って一つの証拠を湮滅《いんめつ》し、それからまた毛布についていた血痕の部分を鋏《はさみ》で切り取ってマッチ函のなかに収め、同じく証拠湮滅を図ったことである。その血痕が直接に犯人を指しているというのではないが、啻《ただ》そのような証拠を隠滅した行動それ自体が杜には後悔され、そして予審が終結したのにも拘らず、その結末が彼だけには信じられないのであった。それはたしかにこの世ながらの地獄の一つだと、杜は感じたことである。
 あの血痕を、それから自身持参して検事局を訪ねようかと思わぬでもなかったけれど、一日経ち二日経ち、彼は遂にそれを決行しなかった。


     11[#「11」は縦中横]


 それは事件があってから、もう一ヶ月に垂《なんな》んとする頃の出来ごとだった。
 杜はバラックの中で、明るい電灯のもとに震災慰問袋の中に入っていた古雑誌を展《ひろ》げて読み耽《ふけ》っていた。そのとき表の方にあたって、
「今晩は――」
 という若い女の声を耳にして、ハッと愕《おどろ》いた。事件以来、それは最初に彼に呼びかけた女の声であるかもしれない。
「だ、誰です。――」
 彼は恐《おそ》る恐《おそ》る席を立って、表の戸を開いてみた。
「ああよかった。いらっしったのネ」
「ど、誰方?――」
 杜にはそれが何人であるかは大凡《おおよそ》気がつかぬでもなかったが、ついそう聞きかえさずにはいられなかった。激しい興奮が、いまや彼の全身を駆けめぐり始めたからだ。
「あたしよォ。――ミチミ」
 ああミチミだ。やっぱりミチミだった。ミチミが来た、ミチミが帰って来たのだ。震災の日に生き別れ、それから一度焼け落ちた吾妻橋の上で睨《にら》み合って別れ、それからずっとこの方《かた》彼女を見なかった。とうとうミチミは彼の前に現れた。昔に変らぬ純な、そして朗かなミチミであるように見えた。
「おおミチミ。――さあお上り」
 その年はいつまでも真夏がつづいているように暑かった。ミチミは何処で求めたものか彼女らしい気品の高い単衣《ひとえ》を着、そしてその上に青い帯を締めていた。
「よく分ったネ。こんな所にいるということが――」
「ええ。――でも、新聞に貴郎《あなた》のことが出ていたわ。ほんとに今度は、お気の毒な目にお遭いになったのネ」
「いや、やっぱり僕の行いがよくなかったんだ。魔が
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