る。
 誰だ? お千を殺したのは?
 杜はだんだんと周章《あわ》てだした。
 さあ大変である。すくなくとも、彼自身は容疑者の一人として、警察署に連行されるであろう。自分はなにかヘマをやっていないであろうか。待てよ――。
 杜は、裏口の幕をはねのけるようにして、小屋のなかに飛びこんだ。
 彼はそこに今の今まで自分が横わっていた寝床を見た。その隣にはお千の空虚《くうきょ》の寝床《ねどこ》があった。これはいけないと思って、彼は前後の見境もなく、今まで寝ていた自分の寝床を畳んで横の方に近づけた。
 そのとき、寝床の下の蓙《むしろ》の上に、ポツンと赤黒い血の痕がついているのを発見して、彼は驚愕を二倍にした。毛布にも附着しているだろうと思って改めてみると、幸いなことにほんの僅かついているだけだった。彼はそこのところの毛を一生懸命で※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》った。
 蓙の上の血痕をそのまま放置しておくことは、彼の弱い心が許さなかった。彼はナイフを出して、その血痕の周囲を蓙のまま四角に切りとった。
 毛布の血痕と、蓙に赤黒く固まりついている血痕とは捨てては危険である。彼は咄嗟《とっさ》に、その二つの証拠品を、マッチ函の中に収《しま》った。これで血の脅威からは脱れることができた。
 もう何か残っていないかと、あたりを見廻した。
「おお、これァ何だッ」
 妙なものがお千の寝床の向う側に落ちていた。拾いあげてみると、それは古風な縫い刺し細工の煙草入であった。彼は急いで中を明けてみた。中には口切煙草が沢山入っていた。その煙草は「敷島」だった。
「ああ『敷島』だ。――」
 胸躍らせながら、彼は中に残っている煙草の数を数えた。丁度十六本ある。
 十六本の「敷島」――そして土間に落ちている四本の「敷島」の吸殻!
 これ等は、杜が事件に対して嫌疑薄《けんぎうす》であることを証明してくれるであろうと思ったので、そのまま放置して置くことにした。彼は煙草入れを、また元のように、お千の寝床の傍に抛《ほう》りだした。
 だが、この煙草入れの持ち主は、誰であろうか?
 夜がすっかり明け放れた。
 戸外は大きな叫び声がしている。誰か通行人が、お千の死体を見つけたのだろう。杜は外に出たものか、小屋の中に待っていたものかと思案に暮れたが、どうしても小屋の中にジッとして居られずになった。それで裏口の幕を押し開いて、集まってきた朝起きの人たちと同じく、お千のブランコ死体の下に馳けつけた。
 急報によって警官の出張があり、杜は真先に警官の手に逮捕せられた。
 警官が後から後へと何人もやってきた。背広服の検事や予審判事の姿も現れた。現場の写真が撮影されると、お千の死体は始めて下に下ろされた。
「死後十時間ぐらい経っていますネ」と裁判医が首を傾げながら云った「ですからまず昨夜の八時前後となりますネ」
 杜は、さんざんばら係官に引摺《ひきず》りまわされた上で、警察署に連行されることとなった。


     10[#「10」は縦中横]


「ただ、正直に凡《すべ》てを話して下さい。僕達がこうして君に詳しく聞くのも、結局君の無罪なる点をハッキリして置きたいためです」
 と、係の検事は穏《おだや》かに云った。
 杜はそれが手だと思わぬでもなかったけれど、適当に検事の温情に心服したような態度を示しながら、出来るだけ詳しい話をした。しかしマッチの函の中に収めた血痕のことだけは、とうとう云わなかった。なにしろそのマッチの函を某所に隠してしまったので、もしその隠し場所などを喋《しゃべ》ったとなると、杜のやり方に不審をいだかれるは必定であり、それから更に面白くない嫌疑を募《つの》らせてはたまらないと思ったので、血痕のことだけは云わないことにした。それは検察官のために、一つの貴重なる断罪資料を失うことになるけれども、ここに至っては、もうどうにも仕様がなかった。
「――前日に来たこの五十男は何という名前だって」
 と検事は鉛筆をなめなめ杜に聞いた。
「たしか麹町の殿様半次とか云っていました」
「ええっ、殿様半次だと、――」
 と警官連は半次の仕業と知ると、云いあわせたように仰天《ぎょうてん》した。
「――つまりこの女の情夫である麹町の殿様半次が一番怪しいということになる。半次ならやりかねないだろう」
 重大なるお尋ね者である半次は、天には勝てず、旧《ふる》い友達のバラックに潜伏しているところを捕《とら》えられた。
 それから取調べが始まった。
 半次の前には、例の口付《くちつき》煙草入れと、土間から拾い上げた吸殻四個とが並べられた。
 彼のアリバイは、彼の当初の声明を裏切って、遂に立証すべき何ものも見つからず、遂に彼は恐れ入ってしまった。
 事件は次のように審理された。
 すなわ
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