夜貴郎がやってくれたと同じようにお千さんの始末をするのを手伝ってくれたのよ。もちろん、すべての計画と命令とは、あたし一人がやったんだわ」
「人を殺してどうするんだ」
「そんなことはよく分っているじゃないの。あたしはただ貴郎が欲しいばっかりよ。だからそれを邪魔する者を片づけたばかりなんだわ」
杜は大きくブルブルと身慄いした。
「――ああ僕は、この手でとうとう人を殺してしまったのだ。ああ、もっともっと前に気がつかなけりゃならなかったんだ。先刻《さっき》か、いやいや。もっと前だ。お千が殺された時か。いやいやもっともっと前だ。そうだ震災になる前に考えて決行しなきゃならなかったんだ。ああもう遅い。とりかえしがつかない」
そういって、杜はわれとわが頭を握《にぎ》り拳《こぶし》でもってゴツンゴツンと殴《なぐ》った。その痛々しい響は、物云いたげな有坂の下垂《かすい》死体の前に、いつまでも続いていた。
13[#「13」は縦中横]
杜はミチミを連れて、久方ぶりで郷里に帰った。今はもう誰に憚《はばか》るところもなく、一軒の家を借り同棲することとなった。いや憚るところもなくといっても、彼等二人は晴れて同棲を始めたわけではなく、倶《とも》に追わるる身の、やがて必然的に放れ離れになる日を覚悟して、僅かに残る幾日かの生への執着《しゅうちゃく》を能うるかぎり貪《むさぼ》りつくしたいと考えたからだった。
その切迫した新生活の展開いくばくもならぬうちに、杜はミチミについていろいろの愕くべき事実を知った。その一つは彼女が、いつか羞《はじ》らいをもって彼に告げたごとく、彼女がこのたび杜と同棲する以前に於ては、ミチミの身体が全く純潔を保たれていたという意外なる事実であった。ミチミの信念と勝気は十二分に証明せられた。
もう一つは、彼女の犯行がいつも一定の条件のもとに突発したということだった。それは彼女の生理的な周期的変調が犯行を刺戟するのであった。杜はそれを彼女の口から聞いて、過去に於けるいろいろな事象を思い出して、なるほどと肯《うなず》いたのであった。お千殺しの現場に落ちていた血痕も、これを顕微鏡下に調べてみれば、そこに特徴ある粘膜の小片が発見されたに違いなかったのである。さもなければ分析試験を俟《ま》って多量のグリコーゲンを検出することができたであろう。いずれにしても、それは生理的な落としものであることが証明される筈であった。ともあれ、そういう条件下の出来事だとすると、これはうまくゆけば、やがてミチミが法廷に裁かれても、死一等を減ぜられることになろうと思った。それはこの際のせめてもの悦《よろこ》びであった。
しかし人間の世界を高き雲の上の国から見給う神の思召《おぼしめし》はどうあったのであろうか。神はミチミが法廷に送られる前に、天国へ召したもうた。
実はあれだけ立派な証拠を残して来た犯罪事件ではあったが、震災直後の手配不備のせいであったか、それから一月経っても、二月経っても、司直はミチミたちを安穏《あんおん》に放置しておいた。しかし初冬が訪れると間もなくミチミは仮初《かりそめ》の風邪から急性の肺炎に侵されるところとなり、それは一度快方に赴いて暫く杜を悦ばせた。けれども年が明けるとともにまた容態が悪化し、遂に陽春四月に入ると全く危篤の状態に陥った。ミチミが他界したのは四月十三日のことであった。
折から桜花は故郷の山に野に爛漫《らんまん》と咲き乱れていた。どこからか懶《ものう》い梵鐘《ぼんしょう》の音が流れてくる花の夕暮、ミチミは杜に手を取られて、静かに呼吸《いき》をひきとった。
杜はミチミの亡骸《なきがら》をただひとりで清めた、それから白いかたびらを着せてみたが、いかにも寒々として可哀想であったので箪笥の引出を開いて、生前ミチミが好んでいた燃えるような緋《ひ》ぢりめんの長襦袢に着かえさせた。そして静かにミチミの亡骸を、寝棺《ねかん》のなかに入れてやったのであった。
ミチミの蝋細工のような白い面《かお》を見ていると、杜は不図《ふと》思いついて、彼女の鏡台を棺の脇に搬《はこ》んできた。そして一世一代の腕をふるって、ミチミの死顔にお化粧をしてやった。
白蝋の面《かお》の上に、香りの高い白粉《おしろい》がのべられ、その上に淡紅色《ときいろ》の粉白粉を、彼女の両頬に円《つぶ》らな瞼《まぶた》の上に、しずかに摺《す》りこんだ。そして最後に、ミチミの愛用していたルージュをなめて、彼女のつつましやかな上下の唇に濃く塗りこんだ。
ミチミはいきいきと生きかえったように見えた。真赤な長襦袢と、死化粧うるわしい顔《かんばせ》とが互に照り映えて、それは寝棺のなかに横たわるとはいえ、まるで人形の花嫁のようであった。ミチミは寝棺のなかに入って、これから旅立
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