らしたばかりだった。
 彼はハッとして指頭《しとう》を改めた。
「おお、血だ、――血が落ちている」
 その瞬間、彼の全身は、強い電気にかかったように、ピリピリと慄えた。


     2


「オイ房子」
「なによォー」
「どうだ、今夜は日比谷公園の新音楽堂とかいうところへいってみようか。軍楽隊の演奏があってたいへんいいということだぜ」
「そう。――じゃあたし、行ってみようかしら」
「うん、そうしろよ、これからすぐ出かけよう」
「アラ、ご飯どうするの」
「ご飯はいいよ。――今夜は一つ、豪遊しようじゃないか」
「まあ、あんた。――大丈夫なの」
「うん、それ位のことはどうにかなるさ。それに僕は会社で面白い洋食屋の話を聞いたんだ。今夜は一つ、そこへ行ってみよう。君はきっと愕《おどろ》くだろう」
「あたし、愕くのはいやあよ」
「いや、愕くというのは、たいへん悦《よろこ》ぶだろうということ、さあ早く仕度だ仕度だ、君の仕度ときたら、この頃は一時間もかかるからネ」
「あらァ、ひどいわ」といって房子は、間の襖《ふすま》をパチンとしめ、
「だってあんたと出かけるときは、メイキャップを変えなきゃならないんですもの。それにあんただって、なるたけ色っぽい女房に見える方が好きなんでしょ」
「……」
「ねェ、黙ってないで、お返事をなさいってば。――あんた怒っているの」
「莫迦《ばか》ッ。だ、だれが怒ってなぞいるものかい」
 男は興奮の様子で、襖に手をかけた。
「ああ、駄目よォ、あんたア……」
 房子は双膚《もろはだ》ぬいだまま立ち上って、内側から、襖をおさえた。
「いいじゃないか」
「だめ、だめ。駄目よォ」
 髪が結《ゆ》えたのか、しばらくすると箪笥《たんす》の引出しがガタガタと鳴った。そして襖の向うからシュウシュウと、帯の摺《す》れる音が聞えてきた。もうよかろうと思っていると、こんどはまた鏡台の前で、コトコトと化粧壜らしいものが触れ合う音がした。
「どうもお待ちどおさま。――アラあたし、恥かしいわ」
 さっきからジリジリしながら、長火鉢のまわりをグルグル歩きまわっていた男は飛んでいって、襖をサラリと開けた。
「アアアア――」
 房子は薄ものの長い袖を衝立《ついたて》にして、髪を見せまいと隠していた。
「あッ、素敵。――さあ、お見せ」
「ホホホホ――」
「さあお見せ、といったら」
「髪がこわれ
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