もそれがよく見えるだろうが。さあどうしてくれる」
「さあ――」
 といっているところへ、表の方で、なんだか意味はわからないが、呼んでいるような声がした。すると五十男は、急に慌《あわ》てだし、
「ちえッ。――まあそのうち、改めて来るから、そのときは性根《しょうね》を据《す》えて返答をしろ、いいかッ」
 と云い捨てて、裏の便所の方から、大狼狽《だいろうばい》の態で出ていった。杜はホッと溜息をついた。
 お千も同じように、ホッと吐息をついた。そして彼の方に媚《こ》びるような視線を送って、
「――あいつは悪い奴なのよ。あたしの本当の亭主じゃなくて、その前にちょっと世話になっていた麹町《こうじまち》の殿様半次という男なのよ。明るいところへ出られる身体じゃないんだけれど、どういうものか今は飛びあるいていて、きょう昼間、運わるくあたしを見かけて因縁《いんねん》をつけに来たのよ。あなた心配しないでネ」
「でも、こうなっては僕も――」
「心配いらないのよ。あたしに委せて置いてちょうだいよ」
「そうだ、丁度会社の方も仕事を始めて、給料をくれることになったから、どこか焼けていない牛込《うしごめ》か芝の方に家を見つけて移ろうか。それともここで君と――」
「いやいやいや」とお千は大きくかぶりを振って、その先を云わせなかった。
「引越した方がいいと思うわ。あたし、どこへでもついてゆくわ」
 そういったお千は、そこでまた身体をブルブルと慄わせると、慌てて座を立って、奥へ駈けこんだ。


     9


 お千が、冷たい骸《むくろ》となったのは、その翌日のことだった――。
 その日、杜は会社へ出たが、戦争のように忙しい仕事の中にいて、ともすれば仕事をまるで忘れてしまうことがあった。彼はなにかの隙があったら、お千と一緒に住む家を、焼け残った牛込か芝かに求めたいものだと焦《あ》せっていた。だが彼の希望は、あとからあとへと押しよせてくる会社の仕事によって、完全に押し潰《つぶ》されてしまった。しかもその日は、夕方になっても仕事の段落がつかず、遂に会社を出たのが夜更の十時だった。会社に泊ってゆけという上役や同僚たちの薦《すす》めであったけれど、彼はそれをふり切るようにして、懐中電灯片手に、お千の待っている家路に急いだのであった。
 帰りついたのは、かれこれ十一時であったろうか――。
 駈け足も同然に、バラ
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