ホラこの前吾妻橋の上で行き会ったあんたのいいひと[#「ひと」に傍点]ネ。あの女学生みたいな娘がサ、向うの道を歩いていたわよ。あんた嬉しいでしょう。――まあ憎らしい」
などといって、はてはキャアキャアふざけるのであった。
またその後の或る日の出来ごとだったが(後で考えるとそれは二十三日のことだったが)彼が会社から帰ってみるといつもは子供のように胸にとびついてくる筈のお千が、迎えに出もせず、小屋のなかに蒼い顔をしてジッと座っているのを発見した。彼は、留守中なにごとかあったのだなと、すぐ悟った。
「いやに元気がないじゃないか。どうしたんだ」
と問えば、
「いえ、なんでもないの」
と、お千は蒼い顔を一層蒼くして、強くかぶりを振った。
「変だな。何かあるんだろう。云ってみたまえ」
彼女は、もう口を堅く閉じて首を左右に振った。
杜はどうしてお千に真実《ほんとう》を云わせたものだろうかと、首をひねって考えていた。
「ごめんなさいまし。――」
そのとき門口《かどぐち》に、男の声で、誰か訪《と》う者があった。
「あッ、――」
とお千は、電気に懸ったように飛び上り、すぐさま門口に両手を拡げて立ちふさがった。
「あんたは出ちゃいけない。なんでもよいの。あたしが話をつけるから……」
そういっているとき、入口の幕をおし分けて、五十がらみの大きな男の顔がヌッと現われた。彼の顔は、渋柿のように真紅《まっか》であった。
「いやあ、これはお安くないところをお邪魔|仕《つかまつ》りまして、なんとも相済みません、ねえ、こちらの御主人さんへ――」
五十男は、不貞不貞《ふてぶて》しい面つきで、ノッソリ中へ入ってきた。
「き、君は何者だ。ここは僕の住居だ。無断で入ってくるなんて、君は――」
「はッはッはッ、無断で無断でと仰有《おっしゃ》りますが、実はこのことについて貴公《きこう》に伺いたいのだ」
「なんだとォ――」
と、杜も強く云いかえした。
「フン、お千がたいへんお世話になっていまして、お礼を申上げますよ。貴公は、人の女房にたいへんに親切ですネ」
「なにッ――では君は」
「もちろんお察しのとおり、私はお千の亭主でさあ。区役所の戸籍係へ行って調べてきたらいいだろう。よくも貴公は、――」
「ああ、そうだったか。貴方《あなた》は、死んだことと思っていたが――」
「ちゃんと生きていらあ。貴公に
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