云った。お千は、ちょっと待ってと云いながら、ビールを売る店のお内儀《かみ》にコソコソ耳うちしてそのうしろの御不浄に出かけた。
やがて二人は、小暗い道を、ソロソロ元来た方に引返していった。
雷門を離れると、もう真暗だった。そこで買って来た提灯をつけたお千は吾妻橋の脇の共同便所の前で、杜を待たせて置いて、また用を達しに入った。
吾妻橋は直したと見えて、昨日よりも遥かに安全に通りやすくなっていたが、それでも提灯の灯があればこそ僅かに通れるのであった。しかし夜のこととて、壊れた橋の態《さま》やら、にごった水の面などが見えなくて、かえってよかった。
橋を渡りきって、石原の大通りを二人が肩を並べて歩いているときのことだった。
「ねえ、あんたァ。あたしどうも辺なのよ。またおしもに行きたくなった」
「フフン、それはビールのせいだろう」
「いいえ、けさからそうなのよ。とてもたまらないの。また膀胱《ぼうこう》カタルになったと思うのよ。――」
とまで云ったお千は、急に身体をブルブルッと慄《ふる》わせた。そして彼に急を訴えると、その場にハタとしゃがんで、堤を切ったような音をたてて用を達した。杜は提灯片手に、その激しい音を聞きながら、あたりに注意を払っていた。――お千は絶対無我の境地にあるような姿勢をしていた。
杜はその夜、小屋にかえってから、遂にお千の身体を知った。
志操堅固な杜だったけれど、どういうものかその夜の尿の音を思いだすごとに、彼はどうにも仕方のない興奮状態に陥ってしまい、その後もその度に、彼は哀れな敗残者となることを繰りかえした。
十七日から、彼は丸の内へ出勤することになった。商会は焼け跡に、仮事務所を作り、再び商売に打って出ることになったからである。
「ね、早く帰って来てネ。後生《ごしょう》だから……」
とお千は杜の出勤の前に五度も六度も同じことを繰返し云った。
「うん、大丈夫だ。早く帰ってくる。――」
そういって出かけたが、彼の帰りは、いつも日暮時になった。
お千は門口に彼の帰ってきた気配がすると、子供のように小屋の中から飛んで出て来た。そして半泣きの顔にニッと悦びの笑《え》みを浮べ、そしてその後で決ったように大きな溜息をつくのであった。いつもきまってそのようであった。
「きょうネ」とお千は或るとき彼を迎えて夕炊《ゆうめし》の膳を囲みながらいった。
「
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