ックの幕を押しわけて家のうちに飛びこんだ杜は、その場にハッと立ち竦《すく》んだ。そこに海軍毛布を被って寝ていると思ったお千の姿が見えないのであった。寝床はそこに敷《しき》っ放《ぱな》しになっていたが、藻《も》ぬけの殻《から》だった。しかし毛布は、人間の身体が入っていたことを証明するかのように、トンネル形にふくれていた。枕は土間にとんでいた。
「お千、オイお千、――」
杜は女の名を呼びながら、厠《かわや》を明けてみた。だがそこにもお千の姿はなかった。
「――とうとう、お千のやつ、逃げてしまったんだな」
杜は悲しみと憤《いきどお》りとに、胸がはり裂けんばかりになってきた。考えてみれば無理のない話でもあった。昔世話になった五十男といえば、ひと通《とおり》やふた通でない深い情交であったに違いない。杜とはほんの僅かなことで結びついただけであった。ことに震災というものがどこまで深刻なものやら判らなかった時代に、彼はお千から大いに頼られたのであって、震災もここに二十四日、惨禍《さんか》は大きかったけれど、もうそれにもいつしか慣れてしまって、始めの大袈裟《おおげさ》な恐怖や不安がすこし恥かしくなる頃であった。そういう時にお千が杜のところを飛び出していったのは一向不自然ではないと思った――。
彼はゴロリと横になった。
ミチミの顔が不図《ふと》浮んできた。それはどこやらすねているような顔だった。
(ミチミはどうしているだろうか。いまごろは、やはりこうしたバラックの中で、あの長身の青年の腕に抱かれて睡っているだろうか?)
などと、しきりにミチミのことが思い出された。お千|失踪《しっそう》の夜に、お千のことよりもミチミのことが想いだされるのはどうしたことであろう。それは杜自身が極めて心の弱い人間であって、悲哀に対して正面から衝突してゆく勇気がないために、その悲哀を紛らすための妥協的代償を他に求めたがるのに外ならなかった。
杜は夢から夢を見た。ただ暗い床のうえに横《よこた》わっているだけのことでうつらうつらとしていた。何度目かに目が覚めたとき、トタン板の裂け目から暁の光りがほんのりと白く差しこんでいるのに気がついた。
彼は改めて寝床のまわりを見廻した。もしやお千の姿がそこに帰ってきていはしないかと思ったが、それは空しき夢であった。彼女の寝床は、昨夜のとおり藻ぬけの殻であった。
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