りグッと締るかと思うと、最前から彼の耳朶に押しあてられていた熱い唇が横に移動して彼の頬の方から、はては彼の唇の方へ廻ってくる気勢《きせい》を示した。杜は近よってくるお千の生ぐさい唇の臭《におい》を嗅いだ。あわてて顔を横に向けようとしたが彼の頸動脈は、お千のためにあまりにも強く締めつけられていた。そのためになんだか頭がボーッとしてきた。
「あぶないッ――これ止せッ」
「これ、生命を粗末にするなッ」
 突然大きな声が耳許にして、二人の身体は両方から支えられた。――杜はその力の下からフーフー息を切った。そして誰か通行人が、自分たちのために叫び、自分たちを支《ささ》えていてくれることに気がついた。
「さあ、落着いて落着いて」と見知らぬ声が云った。
「まあ無理はないよ、お互いに無一文何にもなしになったんだからネ。しかしお前さん方もまだまだ若いんだ。もっと気を大きく持ち、これから夫婦して共稼ぎをするなりしてもう一度花を咲かす気持でなくちゃあ――」
「そうだそうだ」と別の声が云った。
「全く死にたくもなるよ。俺も昨日それをやりかけた。しかしそれは死神が今俺たちについていると知って止したんだ。死神のやつのせいで、今ならとても簡単に死ねるような気持になっているんだ。しかし考えて見なよ、このとおり多い惨死者のなかで、俺たちはともかくも助かっているんだ。なぜ助かったか、そこを考えなくちゃいけない。ねえ、貴郎《あなた》がた――さあお内儀《かみ》さんも元気を出して、下りて歩きなせえよ」
 要らざる訓戒とは思ったが、それを聞いているうちに、杜はそれがなんだかしみじみ自分の心をうっているのに気がついた。そして自分も、すっかり気力を失って本当に夫婦心中をしようと思っていたらしい気がしてくるのだった。不思議な気持ちだった。もちろん後で考えると、それは震災の大きなショックから来た神経衰弱症にちがいなく、莫迦莫迦《ばかばか》しいことではあったけれども――。
 お千は、彼の首に廻していた両腕を解いて、おせっかいな通行人の薦《すす》めるとおりに、下に下りた。しかし彼女はいきなりワーッと大きな声をあげると、杜の胸に顔を埋めて泣きつづけた。
「可哀想に――。無理もねえや。妙齢《としごろ》の女が桐の箪笥ごと晴着をみな焼いちまって、たったよれよれの浴衣一枚になってしまったんだからなァ」
 と、同情の声が傍から聞えた
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