は今夜にかぎって、そう興奮するのだ」
ミチミはテーブルの上に肘《ひじ》をついて、その上に可愛い顎《あご》をチョンと載せた。
「あたし、なんだか今夜のうちに、思いきりお喋べりしておかないと、もうあんたとお話しができなくなるような気がしてならないのよ」
「そんな莫迦げたことがあってたまるものか。ねえ、君はすこし芯がつかれているのだよ」
「そうかもしれないわ。でもほんとに、今夜かぎりで、あんたと別れ別れになるような気がしてならないのよ。ああ、もっと云わせてもらいたいんだけれど――そこで先生が、棺桶のなかから、凝血を採集していって、それを顕微鏡の下で調べるところから、それは人血にまぎれもないことが分るとともに、その中からグリコーゲンを多分に含んだ表皮細胞が発見されるなんてくだりを……」
「ミチミ。僕は君に命令するよ。その話はもうおよし。それに日比谷の陸海軍の合同軍楽隊の演奏がもう始まるころだから、もうここを出なくちゃならない。さあ、お立ち」
男は椅子から立ちあがると、女のうしろに廻って、やさしく肩に手をかけた。
女は、男の手の上に、自分の手を重ねあわした。そしてシッカリと握ってはなさなかった。傍にはキャフェ・テリヤの新客が、御馳走の一ぱい載った盆を抱えたまま、座席につくことも忘れて、呆然《ぼうぜん》と二人の様子に見とれていた。
3
明くれば九月一日だった。
「いよいよきょうから二学期だわ。――あたしきょう、始業式のかえりに、日比谷の電気局によって、定期券を買ってくるわ」
ミチミのあたまを見ると、彼女はゆうべ結った束髪をこわして、いつものように、女学生らしい下げ髪に直していた。紫の矢がすり銘仙の着物を短く裾あげして、その上に真赤な半幅の帯をしめ、こげ茶色の長い袴をはいた。そして白たびを脱ぐと、彼の方にお尻をむけて、白い脛《すね》に薄地の黒いストッキングをはいた。
杜はカンカン帽を手に、さきへ階段を下りた。玄関のくつぬぎの上には、彼の赤革の編あげ靴に並んで、飾りのついた黒いハイヒールの彼女の靴が、つつましやかに並んでいた。
ミチミは、すこし後《おく》れて家から出てきた。二人は停留場の方へブラブラと歩きだした。彼は、ミチミの方を振りかえった。彼女は目だたぬほどの薄化粧をして、薄く眉をひいていた。それはどこからみても十七歳の女学生にしか見えなかった。
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