はそれはいい響きなのよ。先生ていうと、あたしは自分の胸をしっかり抱きしめて、ひとりで悩んでいたあの頃のいじらしいミチミの姿を想い出すのよ。おお杜《もり》先生。先生がこうしてあたしの傍にいつもいつも居てくださるなんて、まるで夢のように思うわ。ああほんとに夢としか考えられないわ」
「ミチミ、今夜君は不謹慎にも十遍も先生といったよ。後できびしいお処刑《しおき》を覚悟しておいで」
ミチミはそんな声が入らぬらしく、小さいビフテキの片《きれ》を頬ばったまま、長い吐息《といき》をついた。
「ねえ、あなた。あの学芸会の練習のとき、あたしが誰かに殺されてしまったと思ったお話を、もう一度してちょうだいナ」
ミチミは、テーブルの向うから、杜の顔をのぞきこむようにして囁《ささや》いた。
「またいつもの十八番が始まったネ。今夜はもうおよしよ」
「アラいいじゃないの。あたし、あの話がとても好きなのよ。まあ、こういう風にでしょう。――僕はすっかり落胆した。恐怖と不安とに、僕の眼前はまっくらになった。ああミチミはどこへ行った? 絶望だ、もう絶望だッ!」
「これミチミ、およしよ」
「――しかし突然、僕はまっくらな絶望の闇のなかに、ほのかな光り物を見つけた。僕は眼を皿のように見張った。明礬《みょうばん》をとかしたように、僕の頭脳は急にハッキリ滲《にじ》んできた。そうだ、まだミチミを救いだせるかもしれないチャンスが残っていたのだ。僕はいま、シャーロック・ホームズ以上の名探偵にならねばならない。犯行の跡には、必ず残されたる証拠あり。さればその証拠だに見落さず、これを辿《たど》りて、正しき源《みなもと》を極《きわ》むるなれば、やわかミチミを取戻し得ざらん――」
「もういいよ。そのくらいで……」
「僕は鬼神《きじん》のような冷徹さでもって、ミチミの身体を嚥《の》んだ空虚《から》の棺桶のなかを点検した。そのとき両眼に、灼《や》けつくようにうつったのは、棺桶の底に、ポツンと一と雫《しずく》、溜っている凝血《ぎょうけつ》だった。――おかしいわネ。そのころあたりはもうすっかり暗くなっていたんでしょう。それに棺桶の底についていた小さい血の雫が分るなんて、あなたはまるで猫のような眼を持っていたのネ」
「棺桶の板は白い。血は黒い。だから見えたのに不思議はなかろう。――だが、もう頼むから、その話はよしておくれ。どうして君
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