まま、目をかっと剥《む》いて、天井を見詰めている。
 小山嬢は、美貌の青年に向って手真似《てまね》と共に何事かを命じた。すると青年は、くるっと後を向いた。青年の顔は、今や窓外から室内を窺《うかが》う帆村と田鍋課長の方へ正面を切った。
(あっ、そうだ、思い出したぞ。あの若僧《わかぞう》とは、この前、R大学研究所で会ったことがある。二百グラムのラジウムの盗難事件が起ったあの研究所だ。たしかあの若僧は、そのラジウム保管室の向い側の何とか研究室の助手で、彼は事件当時、怪《あや》しい女性がその保管室からあわてくさって出て行くのを見たと証言したんだ。なんという名前だったかな。ええと、万沢といったかな。……)
 田鍋課長は、えらいことを思い出した。彼の胸の中は、今や沸々《ふつふつ》と沸騰《ふっとう》を始めた。しかし帆村はそんなことを知らない。


   美しき闖入者《ちんにゅうしゃ》


 田鍋課長の知っていることを帆村は知らず、帆村の知っていることで田鍋課長の知らぬことがあり、両人肩を並べて窓の中を覗《のぞ》き込《こ》んでいるところは奇観《きかん》だった。
 後を向いて、ごそごそやっていた小山嬢が、くるりとこっちへ向き直ったと思うと、彼女の手に一疋の仔猫《こねこ》があった。それをきっかけに美貌の青年も、廻れ右をして、仔猫を見ることを許された。
 小山嬢は、頬《ほお》のあたりにいきいきとして血の色を見せながら、その仔猫を抱いて、博士の首吊《くびつ》り死体の傍《そば》へ寄った。そして博士の服の胸を開くと、その中へ仔猫を入れて、しばらくなにかごそごそやっていた。そのうちにそれが終ったと見え、彼女は博士の胸の釦《ボタン》をかけて身を引いた。
 するとふしぎなことが起った。博士の死体が椅子からふらふらと立上ると見るや、なおそれはふわふわ上へ上って行く。博士の首にからみついている綱がだらりと下へ下る始末。そのうちに博士の死体は、頭を天井にこつんとぶつけ、天井に吸いついたようになってしまった。両脚――いや両のズボンに重い靴をくっつけたのが、ぶらんぶらんと振子運動をつづけている。
 帆村は、たまりかねたように、課長の首へ手をかけて引き寄せた。
「あっ、苦しい。一度下りて下さい」
「こっちもそう願いたい」
 叫んだのは帆村ではなく、帆村と課長を肩車に載《の》せている二人の部下だった。それには構《かま》わず、帆村は課長の耳に囁《ささや》いた。
「今見たでしょうね、あの仔猫を……。仔猫を博士の人形の中に入れると、あのとおり博士の人形はふわふわと空中に浮きあがって天井に頭をつかえてしまった」
「ええッ、あれは人形か。人形だったのか」
 課長は唖然《あぜん》として、目を天井へやる。
「田鍋さん。あの女はやっぱり猫又《ねこまた》を隠していたんですよ。そして博士の人形を作ったり、その他へんな装置をつけたりして、一体何をするのか、このへんで中へ踏込《ふみこ》んだら、どうです」
「うん。しかし、もうすこし見ていよう」
「課長。一度下りて下さい、肩の骨が折れそうだから」
「これ大きな声を出すな。家の中へ聞えるじゃないか」
 上と下との掛け合いが、だんだん尖鋭化《せんえいか》して来た折《おり》しも、思いがけないことが、室内に於《おい》て起った。
 というのは、突然に――全く突然に、どこからとび出したのか、一人の若い女人《にょにん》が、部屋の隅に現われた。彼女の手にはピストルが握られていた。ピストルは小山すみれと美貌《びぼう》の青年とに交互《こうご》に向けられている。
 美貌の青年が両手をあげた。小山嬢もそのあとから、しなびた両手をあげた。小山嬢は額《ひたい》に青筋をたてて憤慨《ふんがい》の面持《おももち》で突然|闖入《ちんにゅう》したる背の高い美女を睨《にら》みつけている。美貌の青年は、にやりと笑っている。
 美女は、しずかに歩を運《はこ》んで、博士の人形を結《ゆわ》えている綱に、空いている方の手をかけた。彼女はその綱をひいて、博士の人形を室外に持出す様子を示した。
 そのとき、美女はわずかの隙《すき》を作った。
 と、実験台の下の腰掛が、風を剪《き》って美女の胸のあたりを襲《おそ》った。が、それは美女が咄嗟《とっさ》に身をかわしたので、うしろの扉にあたって、扉を開いただけに終った。
 ズドン。
 銃声が轟《とどろ》く。硝子《ガラス》の壊《こわ》れる音。悲鳴《ひめい》。途端《とたん》に又もや腰掛がぶうんと呻《うな》りを生じて美女の顔を目懸《めが》けて飛ぶ。これは美貌の男の防禦手段だった。――が、このときどこからともなく煙がふきだしたと思ったら、カーテンが一瞬《いっしゅん》に焔《ほのお》と化した。めらめらぱちぱちと、すごい火勢《かせい》に、研究室はたちまち火焔地獄《かえんじごく》となり、煙のなかに逃げまどう人の形があったが、その後のことは、帆村も田鍋課長も見極《みきわ》めることが出来なかった。突然窓から吹きだした紅蓮《ぐれん》の炎に、肩車担当の二警官はびっくり仰天《ぎょうてん》、へたへたとその場に尻餅《しりもち》をついたからである。帆村と課長は、弾《はず》みをくらって大きく投げだされ、腰骨をいやというほど打って、しばらくは起上ることが出来なかった。
 そのうち火勢はずんずん拡《ひろ》がって、赤見沢博士のラボラトリーはすっかり火に包まれてしまい、手のつけようもなくなったが、それは研究室内にあった油と薬品が、このように火勢を急に強めたものに違いなかった。
 課長が帆村たちと共に再び立上り、燃える建物をいくたびもぐるぐる廻って警戒につとめると共に、機会があれば、中へとびこんで何か目ぼしい品物を取出そうとあせったけれど、遂《つい》に研究室の方には入ることが出来なかった。そしてかの美貌の男か、美女か、小山すみれかに行逢《ゆきあ》えば、直ちに補えるつもりでいたけれど、結局この重要なる三人の人物を空《むな》しく逸《いっ》してしまった。
 駆《か》けつけた消防隊の手で、完全に火が消されると、間もなく暁《あかつき》が来た。
 課長は、焼跡を丹念《たんねん》に調べた。
 その結果、一箇の無残《むざん》な焼死体が発見せられた。背骨からしてすぐ判定がついて、犠牲者《ぎせいしゃ》は気の毒な研究生小山すみれであることが分った。しかし美貌の男も美女も、現場に骨を残していなかった。
 また仔猫の骨もなかった。帆村がさっき異常なる興味を覚えた妙な器具の入っている靴も、焼跡の灰の中には見当らなかった。
 この博士|邸《てい》の火が消えた後で、田鍋課長と帆村荘六とは、焼跡に立って、意見の交換をした。互いに知っている事実を語り合った結果、
「田鍋さん。これは面白くなりましたよ。化け鞄事件と、ラジウム盗難事件との間に密接な関係があるということが分って来たじゃありませんか」
 と、帆村がいえば、田鍋課長は、
「どうもそういうことらしいね。しかしラジウムとお化け鞄と、どういうつながりになっているか見当がつかんが、君は何か思いあたることがあるかね」
「そのことだが、僕の考えでは、あの盗難《とうなん》に遭《あ》ったラジウムは、今どこか知らんが、兎《と》に角《かく》ちょっと手の届かない場所にあるんだと思うんですね。それでさ、あの万沢《まんざわ》とかいう男が小山すみれ嬢を唆《そその》かして、仔猫利用の吊上《つりあ》げ装置を作らせたんだと解釈《かいしゃく》する」
「どうしてそうなるのかね」
「博士の人形も焼けちまい、すみれさんも焼け死んだので、はっきりしたことは分らないけれど、あの博士の人形は猫又の浮力――というか重力消去装置の力というか、それを利用しで浮き上る力を持たせてある。靴に仕掛けた放射線計数管は、ラジウムの在所《ありか》を探すための装置だ。無電の機械は、計数管に現われる放射線の強さを放送する。それからもう一つ、あの人形には電波を受けて、靴の下に仕掛けてある浚渫機《しゅんせつき》みたいな、何でもごっそりさらい込む装置――あの装置を動かせるようになっているんだと思う。つまり電波による操縦《そうじゅう》で浚渫機を動かすんだ。これだけのものを、あの人形は持っていたと思う」
「そんなものを、どうする気かな」
「そこでだ、悪漢《あっかん》一味は、あれを持ち出して人形を歩かせ、計数管の力を借りて、ラジウムの在所を確かめる。
人形がちょうどラジウム二百|瓦《グラム》の容器の上に来たとき、放射線の強さは最大となるから、そのとき悪漢一味は電波を出して、あの靴の下に仕掛けた浚渫機を働かせる。つまりごっそりと、ラジウムの容器を、あの浚渫機の爪《つめ》の間にさらえ込むのさ」
「ふうん、なるほど」
「それからこんどは、例の猫又の力を借りて、人形ごとずっと上へ浮き上らせるわけなんだが、僕にも分らないのは、重力消去装置の力を借りる必要のあるラジウムの隠《かく》し場所とは一体どこなんだか、見当がつかないんだ」
「はてな、一体どこなんだかね。そういうへんな人形の力を借りなければ取出せない場所というと……」
 田鍋課長にも、全く見当がつかなかった。


   椿《つばき》の咲く島


 椿の花咲く大島の岡田村の灯台《とうだい》のわきにある一本の大きな松の木の梢《こずえ》に、赤革のトランクがひっかかっていた。
 それを発見したのは、早起きをして崖《がけ》っぷちで遊んでいた官舎《かんしゃ》の子供たちだった。それからみんなに知れわたって、騒ぎは絶頂《ぜっちょう》に達した。
「誰があんな高いところまで登って、鞄をくくりつけでいったろう。不審《ふしん》なことだ」
 まことに不審の至《いた》りであった。それを探究《たんきゅう》すべく、灯台の職員で、身の軽い瀬戸さんという中年の人と、その配下《はいか》の平木君という青年とが、身を挺《てい》してその松の木をよじ登って行った。
 両人は松の枝にひっかかっている鞄を、枝から取外《とりはず》すと、把柄に縄《なわ》をしばりつけて、鞄を下へぶら下げて下ろした。下に集っていた連中はその鞄が下りてくるのを興味ぶかく見守っていた。その鞄の中から、赤い紐《ひも》が二本ぶらぶらと垂《た》れているのが、甚だ奇妙《きみょう》であったのと、その鞄が地面へつくと同時に、あたりが急にへんに臭《くさ》くなったことが特記せらるべきだった。
 松の木をよじ登った両人も下りて来て、その鞄が半分は自分たちのもののような顔で鞄のそばへ近づいたが、その臭気《しゅうき》には顔をしかめずにはいられなかった。
「瀬戸さん。えらいものを下ろして来たな」
「なんじゃろうかなあ、この臭いのは……」
「その鞄の中が怪しいなあ。へんなものが入っているんじゃよ。女の生首《なまくび》かなんかがよ」
「嚇《おど》かしっこなしよ」
「鞄から出ている赤い紐な。それは若い女の腰紐じゃぞ。その腰紐が、先が裂《さ》けて切れているわ。それにさ、紐の先んところが赤黒く染《そま》っているが、血がこびりついているんじゃないのかい」
 書記の青木が、とがった口吻《くちぶり》から、気味のわるい言葉を次々に吐《は》いた。立合いの衆《しゅう》は、いいあわせたように二三歩後へ下った。
「よおし、何が入っているか、一つ鞄をあけてくれよう」
「よしなよ、気味が悪い。海へ捨てちまいな」
 瀬戸の妻君がいった。
「鞄をあけてから捨てても遅《おそ》くはないだろう。もし紙幣《さつ》が百万円も入っていてみな、わしらの大損だよ」
「ははは、慾が深いよ、工長《こうちょう》さんは……」
 その鞄が簡単にあかなかった。鞄の金具がどうかしているらしかった。そのうちにも臭気はいよいよぷんぷんとたまらなく人々の鼻を刺戟《しげき》したので、立合いの衆は気が短かくなり、とうとう斧《おの》を持ち出して、鞄の金具を叩《たた》き斬《き》った。
 鞄はぱくりと開いた。みんなはわれ勝《が》ちに中をのぞきこんだ。顔をしかめる者、ぺっぺっと唾《つば》を吐く者。中には仔猫の死骸《しがい》が入っていた。それと赤い紐が一本……。
 靴の先と棍棒《こんぼ
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