かつしか》区新宿二丁目三八番地松山」が出したものであり、後者は「板橋区上板橋五丁目六二九番地杉田」が出したものであった。それらの番地を当ってみたところ松山という家も杉田という家もちゃんとあったけれど、その当人はこの広告主ではなく、本当の広告主は別にあった。それに頼まれて名前を貸しただけのことで、その当時毎日何回か、連絡の人が尋ねて来たそうだが、もうこの頃は来なくなったそうである。そして連絡に来た者は、松山の場合には、長屋のお内儀《かみ》さん風《ふう》の女であったそうだし、杉田の場合は、目の光の鋭い、そしていやに丁重《ていちょう》な口のきき方をする商人体の者だったという。そこまでは分っているが、その先のところは帆村にも調べがついていない有様《ありさま》だ。
一体何者だろう、この二人の広告主は?
このことについては、帆村は田鍋捜査課長にも報告して、その注意を喚起《かんき》した。課長は帆村ほどこの問題を重大視はしていない。そしてこの二人の広告主の一人は、博士を昏倒《こんとう》せしめ、お化け鞄を奪った姓名未詳の兇賊《きょうぞく》であり、もう一人は例の目賀野であろうと考えていた。
だが帆村は、田鍋課長と考えを異《こと》にしていた。
広告主の一人は目賀野だと課長は推定している。しかし帆村は、そうでないと思っていた。なぜならば、目賀野ならば一度もそのお化け鞄を手にとって見たことがないから「特別美|且《かつ》大なる把柄あり」などというその鞄の特徴を知っている筈《はず》がない。だから目賀野ではないと思われる。
しからば二人の広告主は何者か。
酒田であろうか、外濠《そとぼり》の松並木の下を歩いていた男であろうか。いやいや、そのどっちでもない。新聞広告の出たのは、彼らがお化け鞄に始めてめぐり合ったどりもずっと以前のことになる。
トランクをトラックに受取って走ったそのトラックの運転手でもないことは、彼が酒田と満足すべき取引をしたことを考えれば、すぐに分る。では、新宿の露店《ろてん》で、この鞄を店に並べて売っていた店員であろうか。いや、彼でもなさそうである。なぜならば三行広告代金と鞄の値段とは殆んど同じであるので、広告を出したとて大抵《たいてい》戻って来ないことが分っているのに広告をする筈がないと思われる。
すると、広告主はもっと以前から、このお化け鞄に関係していた人物に違いない。この十五坪住宅の主人が夜|厠《かわや》の窓から何気《なにげ》なく外を見たところ、トランクが月の光に照らされて、ひとりで道を歩いていたという東都怪異譚《とうとかいいたん》の始まり――あの頃|更《さら》に以前の関係者に相違ない。
一体、誰と誰であろう。
一人は、田鍋課長の指摘《してき》したとおり、多分お化け鞄を博士から奪った兇賊であろうと思われる。しかしこのことも、博士が意識を恢復《かいふく》して、遭難談を詳《くわ》しく述べてくれる日までお預けとしなければなるまい。今一人の人物については、全く五里霧中《ごりむちゅう》である。
が、この二人の正体を突き留《と》めさえすれば、この事件の解決は一層早くなるものと、帆村は確信し、いま推理を懸命に働かせている最中なのであった。
なにさま、帆村探偵の考え方は、田鍋課長のそれとは大分違っている。
深夜の研究室
闇《やみ》に紛《まぎ》れて、四名は赤見沢研究所の建物の壁際《かべぎわ》にぴったり取付いた。
時刻は午後十一時であった。
研究所のすべての窓は真暗《まっくら》であった。みんな寝てしまったであろうかと始めは思ったけれど、窓の一つからすこし灯《ひ》が洩《も》れているので、一同はそれを目当《めあ》てにしてその窓下へ身をひそめたわけである。
ジイイイ……と、妙な音が、室内にしている。
中を覗《のぞ》こうとしたが、窓が高い。
そこで田鍋の部下二名が台の代りになり、帆村と課長を肩車に乗せた。この珍妙《ちんみょう》な形でもって、透間《すきま》を通して窓の中を覗いた。
カーテンの隙間から、室内の模様をうかがうことが出来た。
「おやア……」
「あッ」
帆村も田鍋課長も、思わず愕《おどろ》きの声を発して、あわててあとの声をのみこんだ。
室内には、まことにふしぎな光景が展開していた。
その部屋は、赤見沢博士の研究室の一つで、多数の器具機械がごたごたと並んでいた。そしてそこに三人の人物が居た。
そのうちの一人は、助手の小山すみれ女史であって、彼女がそこに居ることには格別《かくべつ》愕きはしない。
もう一人は、若い男であった。かなり背の高い、立派な顔立の青年であって、にこやかな笑いをたたえて、小山すみれの方を見つめている。
この男の顔を見て愕いたのは帆村荘六ではなく、田鍋課長であった。
(はてな。この女たらしの男は、どこかで見たことがあるぞ)
たしかに課長の記憶の中にある男であった。しかしどこで見た男だったか、すぐにはそれを思出すことが出来なくて、課長はいらいらして来た。帆村はこの青年の顔に、何の記憶も持っていなかった。ただ、小山すみれ嬢とはおよそ反対の立派な男子で、皮肉な対照《たいしよう》をなしていると感じたことであった。が、しかし、彼はあまりながくこの美貌《びぼう》の青年に見惚《みと》れていることが出来なかった。というのは、残るもう一人の人物が、彼の注意力の殆んど全部を吸取ってしまったからである。そのことは、田鍋課長にとっても亦《また》同様であった。
(あれは赤見沢博士に相違ないが、一体どういうわけで博士はここにいるんだろうか)と帆村は不審《ふしん》の目をぱちくり。課長の方は(誰が赤見沢博士を病院から出したんだろうか、わが輩《はい》の許可を得もしないで……。何奴《どいつ》が出したか、怪《け》しからん奴《やつ》どもだ)
と、かんかんになって、頭から汗が出て来た。
その赤見沢博士は、肘懸椅子《ひじかけいす》に凭《もた》れ、頭を後の壁につけていたが、その恰好がへんにぎこちなかった。博士はまだ意識|混沌《こんとん》としているので、あのような恰好をしているのであろうが、両眼を大きく明けているのが、ちと腑《ふ》に落ちかねる。
そのときであった。小山すみれが脚立《きゃたつ》から下りて、二本の綱を引張って、赤見沢博士の傍へ来た。その綱は、天井から垂《た》れていた。よく見ると、天井には滑車《かっしゃ》がとりつけてあり、綱はそれに掛っていて、上下自在になっていることが分った。
小山女史は、その綱の一本を、いきなり赤見沢博士の頸《くび》にぐるぐるっと巻きつけた。顔色一つ変えないで……。美貌《びぼう》の男は、あいかわらずにこにこ笑っている。小山嬢は綱に結び目をつくると二三歩うしろへ身を引いて、もう一方の綱をぐんぐんと下にたぐった。すると博士の頸に搦《から》みついている綱がぴーンと張った。それでも小山嬢は、自分の手にある綱をぐんぐんと下にたぐった。博士の身体が椅子から浮きあがった。小山嬢が綱をたぐるたびに、博士の身体は上へ吊りあげられた。博士の絞首刑《こうしゅけい》である。それを自らの手によって行っている小山すみれの顔は、始めと同じく無表情で、悔恨《かいこん》の色もなければ憎悪《ぞうお》の気も見えない。
とうとう赤見沢博士は、背広姿のまま、室内にぶら下った。博士の足が、実験台よりもすこし高くなったところで、小山嬢は、手にしていた綱《つな》を壁際の鉄格子《てつごうし》にしっかりと結びつけた。そして首吊り博士の下までやって来て、美貌の男の方へ何とかいって、博士の足を指した。
田鍋課長は先刻から愕《おどろ》きの連続で、息が詰まる想《おも》いだった。かねて怪しいと睨《にら》んでいた小山すみれが、博士の首に綱をかけてくびり殺すところをまざまざと見せられ、全身の血は逆流した。現行犯にしても、これほど鮮かに恐ろしい現行犯を見たことは、今までにないことだった。彼は、自分が部下の肩車に乗っていることを忘れて、窓を叩き割ろうとして、帆村に停《と》められた。
「ちょっと、静かに……」
帆村は、室内を指した。
小山嬢は博士のズボンを手にとって、ズボンの裾《すそ》を持ち上げた。
奇怪なことに、そのズボンには脚《あし》が入っていなかった。つまりズボンだけであった。
小山嬢は、実験台の下に跼《しゃが》むと、間もなく台の上に大きな靴を持出した。彼女はそれを博士のズボンの下のところへ持っていって、靴をはかせるような恰好《かっこう》をしてみせ、それから靴をまた台の上へ置いた。博士にその靴をはかせるつもりらしいが、ズボンだけで足のない博士が、どうしてそんな重い靴をはくことが出来るだろうかと、田鍋課長は気がかりであった。
小山嬢は、その靴を指して、美貌の青年の顔を見上げた。青年は肯《うなず》いた。小山嬢は靴の中をあけて見せた。中には何やら詰まっていた。それは何かの小型の器械であるらしく、小さい部分品が組合わせられていた。そんなものが入っていては、靴の中に足を突込むことが出来ないではないかと、田鍋課長は更《さら》に気がかりになった。
小山嬢の指は敏捷《びんしょう》に動いて、その部分品を一々指した。彼女はそれについて説明しているらしいが言葉はさっぱり分らない。しかし帆村は、その小型器械が、無電装置であることに気がついた。
小山嬢は、もう一つの靴の中からも、別の器械を取出した。その器械は、著しい特徴があるので、帆村にはすぐ分った。それは放射能《ほうしゃのう》物質から出る放射線を捕えて、その放射線の強さを検出する計数管《けいすうかん》の装置であった。
(無電装置と放射線計数管と――妙なのが靴の中に収《しま》ってある?)と、帆村は首をひねった。田鍋課長には、そんなことは分らないので、どうしてあんなものを靴の中に入れてあるのか、あれでは足が入るまいなどと、そんなことばかりを心配していた。
小山嬢は、靴を手にぶら下げた。そして指をしきりに動かして、計数管と無電装置との間に連絡のあることを示したのち、靴をいじっていたが、靴のフックのところに突然赤い豆電球がついた。
すると、殆んど同時に、靴の底から熊手《くまで》のようなものがとび出して、下に向って開いた。その恰好は、がんじきをつけた雪靴にどこか似ていた。その熊手|様《よう》のものは、蟹《かに》のように爪をひろげ、びくびく慄《ふる》えていたが、そのうちにその爪がだんだん内側へ曲って来て、遂《つい》には靴の下で何物かをがっちりと抱きしめたような恰好となった。
小山嬢は、そうなった靴をしきりにさしあげて、美貌の青年の注意を喚起《かんき》している風に見えた。すると青年は感激の面持《おももち》で、つと小山嬢の方に寄ると、靴もろとも両手でぐっと抱きしめた。青年の腕の下にある小山嬢の顔が、急に蒼《あお》くなり、それからこんどは赤くなった。彼女のしっかり閉じられた瞼《まぶた》の下に大きな眼玉がごろんと動くのが見えた。彼女は恍惚境《こうこつきょう》に入っているらしい。
青年が腕を解《と》いて小山嬢を離すと、彼女は靴を持ったまま傍の椅子の上へ、へたへたと崩《くず》れるように腰をおとし、しばらくは動こうともせず、口もきかなかった。
(無電装置と放射線計数管と浚渫機《しゅんせつき》とを備えている靴――とは、妙な靴があったものだ。一体この三題噺《さんだいばなし》みたいなものをどう解くべきであろうか)
帆村は、小山嬢がまだ持続する恍惚境から醒《さ》めやらぬのを見やりながら、心のなかにメモをとった。
そのうちに小山嬢は、やっと正気に戻ったと見え、靴を抱《かか》えて椅子から立上った。
彼女はその靴の紐《ひも》を、博士のズボンの下端《かたん》にまきつけて縛《しば》った。ズボンが靴をはいたように見える。
それがすむと、小山嬢は、飾椅子に結《ゆわ》きつけてあった綱をほどき、宙に首吊《くびつ》りを演じている博士の身体を下におろし、前のとおり肘懸《ひじかけ》椅子に腰を掛けさせた。博士の死体は、綱を首にまきつけた
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