は急に男に対してやさしくなり、そしてその鞄を二人で守って男のアパートへ入り、同棲《どうせい》生活の第一夜を絢爛《けんらん》と踏み出すことに両人の意見は完全なる一致をみたのであるが、この詳細もここにくだくだしく描写している遑《いとま》はない。
 それよりは問題はトランクの運命にある。そのトランクは翌朝両人が目ざめてみると、たしかにそこに置いた筈の夜具の裾《すそ》のところには見当らず、両人は目を皿にして部屋中を匐《は》い廻ったがどこにもなく、そこで両人互いに相手を邪推《じゃすい》して立廻りへと移行したが、両人が相手の顔を捻《ね》じて天井へ向けたときに、そこにぴったり吸いついている前夜のトランクを両人が同時に発見した。そこで両人は再び協力し、誰がトランクを天井の桟《さん》に釘をうってそれへ引掛けたかを怪しみながら、机に椅子を積み重ね、箒や蝙蝠傘《こうもりがさ》やノックバットまで持ちだしてそのトランクを下ろそうと試みた。そのうちにどうした拍子《ひょうし》かトランクの蓋が開いて、その中身が五彩《ごさい》の滝となって下に落ちて来た。両人がそれにとびついて、かき集めている間に、トランクは明いた窓から黙って外へ飛び出していった。
 トランクの後を追って書きつけていると際限《さいげん》がないので、しばらくトランクから離れた話をしようと思う。


   帆村探偵登場


 冬日の暖くさしこんだ硝子《ガラス》窓の下に、田鍋《たなべ》捜査課長の机があった。課長と相対しているのは、長髪のてっぺんから地肌《じはだ》がすこし覗いている中年の長身の紳士だった。無髭無髯《むしむぜん》の顔に、細い黒縁《くろぶち》の眼鏡《めがね》をかけ、脣が横に長いのを特徴の、有名なる私立探偵|帆村荘六《ほむらそうろく》だった。一頃から思えば、この探偵も深刻にふけて見える。
「猫の子が宙を飛べるものなら、鞄が宙を飛んだって、仔猫の場合以上にふしぎだとはいえないわけですね」
「いや帆村君、それは違うだろう。猫の子が宙を飛ぶのは許さるべきとしても、生《せい》なき鞄が宙を飛ぶのは怪談だよ。その怪談に怯《おび》やかされてわが五百万の都民は枕を高うして睡《ねむ》れないと山積する投書だ。あれあの籠《かご》を見たまえ」と課長は、二つ三つ向こうの部下の机上を指す。それは尤《もっと》もな風景を見せていた。
「怪談ということでは、この事件の解決はちょっとむずかしいですよ。物理学で行くなら、仔猫も鞄も同じ格です。そしてそらに飛ぶ場合も考えられないことはない。課長さん、そのことについて赤見沢博士の助手の何とかいう婦人に糾《ただ》してみましたか」
「だめだ、あの小山すみれは。ああいう女は、一旦|依怙地《えこじ》となったら、殺されても喋《しゃべ》らないものだ。赤見沢はさすがにそれを心得て雇っている。沈黙女史は今のところそっとして置くしかない。しかし――帆村君。生もない鞄がなぜ飛び得ると考えるのか、怪談以外の考え方に於て……。ねえ君、林檎《りんご》も落ちるよ、星も落ちる、猿も木から落ちる」
「万有引力が正常普通に作用するかぎり、それはその通りです。猫の子が宙を飛び、鞄が空《くう》を走るためには、それらの物体に万有引力と反対の方向に作用する相当の力が働いていると断定して間違いないわけでしょう。課長さん、これに答えて下さい」
「さあ、わしには分らんね、全く……」
「万一に考えられることは、特別の浮力です。物体が空気の中にあるために、自分が排除《はいじょ》する容積だけの空気の重量に等しい浮力が、万有引力と反対方向に働いているのですが、こんなことは断るまでもない常識事です。そしてその浮力が仔猫の場合に於ても、鞄の場合に於ても万有引力に比して殆んど省略し得る程度の微小《びしょう》なる力です。これはこれで片づいたとして第二に考えられることは……」
「頭の痛くならんように喋《しゃべ》ることはできないものかね」
「ご尤《もっと》もです。……それでそれは――第二に考えられることは、万有引力常数を変えてしまうこと。第三には第三の物体を誘致《ゆうち》し来《きた》って、それによる引力を、万有引力以上に効《き》き目を持たせること。それから第四に、アインシュタインの設定した万有引力テンソルを……」
「待った。もうたくさん」
「第四は、今の場合論じなくてもすみますから、横へどけて」
「みんな横へどけて、怪談へ戻ろうじゃないか」
「とんでもない。要するに、第二又は第三の素因《そいん》によって、仔猫が宙を飛び、鞄が空を走るものと推定し得られないことはない。赤見沢博士のユニークな頭脳はそれを装置化することに成功したのではないか。仔猫が飛び鞄が走るは、その装置化の成功を語っているのではないか。しからばもはや鞄が深夜《しんや》の焼跡《やけあと》をうろつこうと、真昼のビル街を掠《かす》めようと問題ではない。そうでしょうが……」
「いや、おかしいよ。鞄は必ずしも空中を泳いでばかりはいない。神妙に下に落着いていることもある」
「そんなことは仕掛の工合《ぐあい》でどうにでもなりますよ。たとえぼ、鞄の把柄を手に持って鞄を下げているときには、スイッチが外《はず》れるようになっていて異変《いへん》は起らない。しかし把柄が握られていないときはスイッチが入って、鞄は例の素因《そいん》により万有引力に勝《まさ》って浮きあがる――つまり鞄とその中身との重さが一枚の羽毛ほどの重さに変わってしまう。そういうわけでしょうな」
「実際に出来るのかね、そんな仕掛が……」
「発明が出来れば、あとは仕掛を作ることなんか極《きわ》めて容易《ようい》ですよ」
「ふうん、そんな鞄がどんどん現れて管下一円《かんかいちえん》を脅《おびやか》すことになれば、わし達は鞄狩りに手一杯となり、他の仕事が出来なくなるだろう。とにかく怪談にせよ引力にせよ、一大事件だ。早いところその核心《かくしん》を摘出《てきしゅつ》して、犯人を検挙せにゃいかん」
「犯人というほどのものじゃないでしょうに。それに赤見沢博士は今も人事不省《じんじふせい》を続けていて、何一つ出来ない」
「わしは赤見沢が真実不能者かどうか、厳重に監視をしている。序《ついで》に、あの女も小使夫婦も見張っている。赤見沢たちの犯行は、例の臼井という若僧や前知事の目賀野が出て来れば分ると思うんだが、どういうわけか彼等は姿を見せん。それはなぜだろうか、どうも分らない」
「その臼井氏や目賀野氏の行方こそ、即急《そっきゅう》に突きとめなければならないですね。それから、鞄は一日も早く取り押えなければならない。それと例の仔猫です。あの仔猫はどうなったか、あれはぜひ突き留めなければならないですね」
「はあ、仔猫か。あんなものは大したことはあるまい」
「いや、そうじゃないですよ。あれこそ最も重視すべきものだ」
「もうそろそろ本格的に化《ば》け猫になる頃だという意味かね」
「あの助手女史が保管していないでしょうか」
「あっ、そうか。よし、白状させてみる。不都合な奴だ」


   名探偵ノート


 その夜、田鍋課長と部下二名は、帆村荘六を交《まじ》えて、ひそかに赤見沢博士の研究所を指《さ》して出発した。このことは絶対に秘密裡《ひみつり》に行われた。捜査課長ともあろうものが、私立探偵の手を借りたなどという風評《ふうひょう》がたっては、田鍋警視は甚《はなは》だ困るのであった。
 もっとも課長は、今夜の行動を、役所の用事とはしないで、お化け鞄と猫又《ねこまた》に興味を持つ帆村荘六を援助するための特別行動である――と、彼の部下二名に説明してあった。
 帆村は、お化け鞄については、前章に述べたような見解を持《じ》していた。しかし彼は、この鞄の素性《すじょう》についてまだ突き留めていないことは、田鍋課長の場合と同じだった。
 だが彼が、この事件に異常な興味を持って、解決に一生懸命の努力を払っていることは誰の目にも明白であり、従ってそのお化け鞄についての考察については、誰よりも深いものがあり、そのことを田鍋課長もはっきり認めていたればこそ、こうして帆村荘六のうしろについて行く気にもなったのである。正直な話が、課長としては、このお化け鞄事件ぐらいやりにくい事件は、本庁に奉職以来に一度も先例のないものだった。
 今夜の行動は、帆村の示唆《しさ》するところに従って、田鍋課長が蹶起《けっき》したという形になっていたが、実のところ課長としては何等自信のあることではなかった。行きあたりばったりに何か掴《つか》めるかもしれない、とにかく助手の小山すみれを絞《しぼ》ってみれば何か出て来やしないか――ぐらいの予想しか持っていなかった。
 これに対して帆村荘六の方は、ずっと確《たし》かな筋として、今夜の行動を割り出しているのだった。すなわち帆村の考察によれば、まず第一に、お化け鞄の誕生は赤見沢博士の研究所に違いないから、どうしてもそこをもっと詳しく調べる必要がある。誠《まこと》に彼はその研究所へ一度も足を踏み入れたことがないのであるから、今夜はぜひ入って調べてみたい。
 第二に、あのお化け鞄の製作を注文したのは元知事の目賀野であることは、臼井の話から想像がつくが、目賀野は一体その鞄をどんな目的に使用するつもりであったか、そのことは注文主として当然赤見沢博士に語ったことであろうし、従ってその製作の助手をつとめた小山すみれ女史にも全部又は一部が通じられている筈である。一体その目的は何であるか。それが分ればこの事件の解決はずっと早くなろう。また、それが分れば、或いはこの事件は更に重大なる特性を曝露《ばくろ》して前代未聞《ぜんだいみもん》の大事件に発展するのではなかろうか。これは永年探偵等をつとめて来た帆村の第六感であった。
 それから第三に、お化け鞄と、赤見沢博士が電車の中で後生大事に抱えていた鞄――その中には杉の角材四本などが入っていた方の鞄――この両者の関係が、まだはっきりしないのであるが、これもなかなか重大問題だと思う。なぜなればこの問題には、赤見沢博士の遭難事件が関係している。つまり赤見沢博士が怪漢《かいかん》のために襲撃されたのは、お化け鞄を持っていたことによるらしく思われる節がある。博士はお化け鞄を怪漢のために奪われたのではあるまいか。そしてその代りとして、只の鞄が博士の昏睡体《こんすいたい》の横に置かれてあり、共に目白署に収容されたのではないか。
 帆村は、この二つの鞄を区別して考えていた。係官の中には、両者を同一の鞄とし、それが時には普通の鞄であり、また時には化けるのだと考えているようであったが、帆村はこの二つが別物《べつもの》だとしていた。それを区別するのに最もはっきりしている点は、赤見沢博士の昏倒《こんとう》している傍《そば》にあった鞄には、ちゃんと鍵がかかるようになっていたのに対し、かのお化け鞄を手にしたことのある人々の話によると、そのお化け鞄には鍵がかからない、つまり錠前がついていない。それともう一つは、お化け鞄には特別に立派な把柄がついているとのことであった。
 もし出来るなら、この二つの鞄を並べてみればよく分るのであるが、今はそんなことが出来ない。お化け鞄は相変らず神出鬼没《しんしゅつきぼつ》だし、目賀野たちが出頭して引取っていった只の鞄の方は、目賀野たちと共に目下行方不明とある。
 もう一つ、帆村が特に重大視《じゅうだいし》していることがあった。それは案外誰も大して気にかけていないことであったが、例の「赤革トランク紛失」の新聞広告のことであった。
 あの三行広告は、同じ日の同じ新聞の広告欄に、同じような文句でもって、二つの広告が並んでいた。「拾得届出者に相当[#「相当」に白丸傍点]謝礼」と書いてある「姓名在社三二五[#「三二五」に白丸傍点]番」と、もう一つは「拾得届出者に莫大[#「莫大」に白丸傍点]謝礼」と書いてある「姓名在社三二六[#「三二六」に白丸傍点]番」との二つだった。
 一体これは何者が出した広告なのであろうか。帆村が調べたところでは、前者は「葛飾《
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