鞄らしくない鞄
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)寒波《かんぱ》のために
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)事件|引継簿《ひきつぎぼ》
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事件|引継簿《ひきつぎぼ》
或る冬の朝のことであった。
重い鉄材とセメントのブロックである警視庁の建物は、昨夜来の寒波《かんぱ》のためにすっかり冷え切っていて、早登庁《はやとうちょう》の課員の靴の裏にうってつけてある鋲《びょう》が床にぴったり凍《こお》りついてしまって、無理に放せば氷を踏んだときのようにジワリと音がするのであった。朝日は、今ようやく向いの建物の頭を掠《かす》めて、低いそしてほの温い日ざしを、南向きの厚い硝子《ガラス》の入った窓越しにこの部屋へ注入して来た。
そのとき出入口の重い扉がぎいと内側に開いて、肥《こ》えた赭《あか》ら顔の紳士が、折鞄を片手にぶら下げて入って来た。
課員たちは一せいに立上って、その紳士に向って朝の挨拶《あいさつ》をのべた。みんなの口から一せいに白い息がはきだされて、部屋の方々に小さな虹《にじ》が懸った。紳士は一番奥まで行って、まだ誰も座っていない一番大きな机の上に鞄をぽんと投げ出し、それから後を向いて帽子掛に、鼠色の中折帽子をかけ、それから頸《くび》から白いマフラーをとってから、最後に鼠色《ねずみいろ》の厚いオーバァを脱いで引懸けた。それから身体をひねって、大机にくっついている回転椅子をすこし後にずらせて、その上に大きな尻を落着かせたのであった。かくして警視|田鍋良平《たなべりょうへい》氏は、例日の如くちゃんと課長席におさまったのである。
少女の給仕が、縁《ふち》のかけた大湯呑《おおゆのみ》に、げんのしょうこを煎《せん》じた代用茶を入れてほのぼのと湯気だったのを盆にのせ、それを目よりも上に高く捧げて持って来た。課長は彼女がその湯呑を、いつもと同じに、硯箱《すずりばこ》と未決《みけつ》既決《きけつ》の書類|函《ばこ》との中間に置き終るまで、じっと見つめていた。
少女の給仕が、振分け髪の先っぽに、猫じゃらしのように結んだ赤いリボンをゆらゆらふりながら、戸口近い彼女の席の方へ帰って行くのを見送っていた田鍋課長は、突然|竹法螺《たけほら》のような声を放って、誰にいうともなく、
「あーア、昨夜から、何か変ったことはなかったかア」
と、顔を正面に切っていった。そして手を延ばして大湯呑をつかむと、湯気のたつやつを唇へ持っていった。破《やぶ》れ障子《しょうじ》に強い風が当ったような音をたてて彼は極《ご》く熱《あ》つのげんのしょうこを啜《すす》った。近来|手強《てごわ》い事件がないせいか、どうも腸の工合がよろしくない。
ばたんと机に音がして黒表紙の帳簿《ちょうぼ》が課長の前に置かれた。「事件|引継簿《ひきつぎぼ》第七十六号」と題名がうってある。課長は大湯呑を左手に移し、右手の太い指を延ばして帳簿の天頂《てっぺん》から長くはみ出している仕切紙をたよりにして帳簿のまん中ほどをぽんと開いた。その頁には、昨日の日附と夕刻の数字とが欄外《らんがい》に書きこんであり、本欄の各項はそれぞれ小さい文字で埋《うま》っていた。
“――省線山手線内廻り線の池袋駅停り電車が、同駅ホーム停車中、四輌目客車内に、人事不省《じんじふせい》の青年(男)と、その所持品らしき鞄(スーツケースと呼ばれる種類のもの)の残留せるを発見し届出あり、目白署に保護保管中なり。住所姓名年齢|不詳《ふしょう》なるも、その推定年齢は二十五歳前後、人相服装は左の如し……”
課長はそのあとの文字を、目で一はけ、さっと掃《は》いただけでやめ太い指で紙をつまんで、次の頁をめくった。
次の頁は空白《ブランク》だった。
(さっぱり商売にならんねえ)
と、課長は、刑事時代からの口癖になっている言葉を、口の中でいってみた。ぽたりと微《かす》かな音がした。茶色の液《えき》の玉が空白の頁の上に盛上って一つ。課長は大湯呑を目よりも上にあげて、湯呑の尻を観察した。それからその尻を太い指でそっと撫《な》でてみた。指先は茶色の液ですこし濡《ぬ》れた。課長はすこし周章《あわ》てて茶碗を下に置きかけたが、机に貼りつめている緑色の羅紗《ラシャ》の上へ置きかけて急にそれをやめ、大湯呑は硯箱《すずりばこ》の蓋の上に置かれた。
課長の仕事は、まだ終っていなかった。事件引継簿の頁の上にはげんのしょうこの液の玉が盛上っていた。課長は、机の引出から赤い吸取紙を出して、茶色の水玉の上に置いた。吸取紙は丸く濡れた。その吸取紙を課長が取ってみると、帳簿の上の水玉は跡片《あとかた》なく消え失せていた。課長の当面の仕事は終った。
おれの次の仕事は、何時になったら出来てくるのであろうか――と、課長は背のびをしながら、両手を頭の後に組んだ。
失踪《しっそう》の博士
いつもなら、そういう面会人は必ず応接室へ入れるのが例になっていたが、今日ばかりは特別の扱いで、課長はいそいそと席から立って指図《さしず》をし、その面会人を自分の机の横の席へ通させたのである。ちょうどその日のお昼前のことであった。
面会人は臼井《うすい》藤吾という姓名の青年であり、この臼井青年を紹介して来たのは、課長と同郷の大先輩である元知事|目賀野《めがの》俊道氏であった。しかし課長は、この大先輩に対し、あまり尊敬の念を持合わしてはいなかった。
「実は重大人物が行方不明となりましたものですから、特に課長さんの御尽力《ごじんりょく》に縋《すが》りたいと存じまして、目賀野|閣下《かっか》から紹介して頂いたような次第でございます」
青年臼井は、ポマードで固めた長髪を奇妙に振りながら、近頃の青年にしては珍らしく鄭重《ていちょう》な言葉で挨拶をしたのだった。青年の赤いネクタイが、その睡眠不足らしい腫《は》れぼったい瞼《まぶた》や、かさかさに乾いた黄色っぽい顔面とが不釣合に見えた。
(目賀野氏はもはや閣下ではない筈ですが……)と皮肉をいってやりたくなった田鍋課長だったけれど、それは差控《さしひか》えることにして、
「どういう人物だか、詳しくお話下さらんので、われわれには正体が分りませんが、とにかく家出人の捜査申請《そうさしんせい》は本庁でも毎日受付けて居りますから、どうぞ届書《とどけしょ》を出されたい」
と返答をした。
「いや、これは失礼をいたしました。故意にその人物の素性《すじょう》などを隠そうとしたものではなく、その人物が如何なる人であるかを説明するには相当長い説明が要《い》りますので、とりあえず重大人物と申上げたわけでありまするが……」
「お話中ですが、われわれは非常に多忙でありますし、且《かつ》又《また》非常に重大事件を数多抱えて居りますために、なるべくつまらんことでわれわれを煩《わずら》わさないように願いたい。いやもちろん目賀野先生の紹介状に対して敬意を表しないというわけではありませんが、とにかく本課では目下数多の重大事件を抱えこんでいる――今も申した通りですが、例えば某研究所から二百グラムという夥《おびただ》しいラジウムが盗難に遭い目下重大問題を惹起《じゃっき》していまして、本課は全力をあげて約四十日間|捜索《そうさく》を継続していますが、今以て何の手懸りもない――迷宮《めいきゅう》入り事件くさいですがね、これは……、それだとか次は……」
「お話中を恐れ入りますが、他の重大事件には私は殆んど関心を持って居りませんので。はい、只々《ただただ》重大人物博士の失踪《しっそう》について非常なる憂慮《ゆうりょ》と不安と焦燥《しょうそう》とを覚えている次第でございます」
「失踪事件ならば、先刻も御教えしたとおり家出人捜査|申請《しんせい》をせられたい」
「それは分って居ります。しかしですな、その博士はあまりに重大なる人物でありまして、普通の失踪捜査申請などをしていたのでは間に合わないのでございます。況《いわ》んや博士に於《おい》ては家出せられるほどの事情は痕跡《こんせき》ほども持って居られない。従ってこれは博士を誘拐《ゆうかい》したと見なければならない甚《はなは》だ重大刑事事件であります。果《はた》して然《しか》らば、刑事部捜査課長たる足下《そっか》が当然陣頭に立って捜査せらるべき筋合のものであると確信いたします」
「一体《いったい》誰ですか、その重大人物博士とやらいうのは……」
「赤見沢《あかみざわ》博士のことです。あの有名な実験物理学の権威《けんい》、そして赤見沢ラボラトリーの所長、万国《ばんこく》学士院会員、それから……いや、後は省略しましょう。ここまで申せば、課長さんも赤見沢博士の重大人物たることをよく御了解《ごりょうかい》になるでしょう」
「もちろんです」課長は勢い上、そう応《こた》えなければならなかった。「赤見沢先生が失踪されたとは、これは初耳ですな。それは何時《いつ》のことですか」
「昨夜以来、お邸《やしき》へお帰りがない。お邸と申しましても、それはラボラトリーの一室ですが……。私は昨夜はお目に懸《かか》る約束になっていたので博士の御帰りを待って居りましたが、遂《つい》に博士はお帰りにならず、本日午前十時になっても姿をお現わしになりません。それ故にこれは大変だと思い――今までそんな約束ちがいは一度もありませんでしたからな――それで目賀野閣下に御相談をし、こちらへ駈付《かけつ》けましたような訳です。如何です。昨夜何か都下において血腥《ちなまぐさ》き事件でもございませんでしたでしょうか」
臼井は錐《きり》のように鋭く問い迫る。
「昨夜は極《きわ》めて静穏《せいおん》でしたな。報告するほどの事件は一つもなかった。いや、正確に申せば只一件だけあった。深夜《しんや》池袋駅|停《どま》りの省線電車の中に、人事不省になった一人の男が鞄と共に残っていたというだけのことです」
「えっ、鞄と仰有《おっしゃ》いましたか」
「ああ、鞄――それはスーツケースらしいですが、それが車内に残留していたので、その人事不省の人物の所持品じゃろうと……」
「その人事不省の男というのは、どんな男でしたか。年齢はどのくらい……」
「二十五前後の青年男子だと報告して来ています」
「ああ、それじゃ違う。赤見沢博士は確《たし》か本年六十五歳になられる老体《ろうたい》なんですからね」
「それはお気の毒」
と課長はいって、事件引継簿を書類|函《ばこ》の既決《きけつ》の函の中へ、ばさりと投げ入れた。
仔猫《こねこ》の怪《かい》
面会人臼井は、なかなか尻を上げようとはしなかった。
「これは一つ、今日只今課長さんによく認識して頂かねば、僕は帰れません。そもそも赤見沢博士の重大性なるものは……」
「粗茶《そちゃ》ですが、どうぞ」
少女の給仕が茶を入れて持って来て、臼井の前に置き課長の大湯呑にはげんのしょうこをつぎ足して来た、課長は客に粗茶をどうぞと薦《すす》めたわけだ。
「ああ結構です」と臼井は香《か》のない茶に咽喉《のど》を湿《しめ》し、「早く分って頂くために、そうですなあ、ああそうだ、仔猫《こねこ》のお話をしましょう」
「仔猫?」
「そうです。猫の子ですなあ」
課長の前の既決書類函から書類を取出していた少女の給仕は、猫の子問答のおかしさに耐《た》えられなくなって、書類を抱えると大急ぎで後向きになって、すたすたと戸口の方へ駆出《かけだ》した。
「猫の子がどうしたというんです」
「課長さん。僕が博士を始めて訪問したときに、その部屋に仔猫がいたんです。僕はびっくりして腰を抜かしそうになりました」
「君はよほど猫ぎらいと見える。ははは」
「いや違う。総じて猫というものは僕は大好きなんです。だから普通では猫又《ねこまた》を見ようが腰を抜かす筈がない。だからそのときは愕《おどろ》きましたよ、実に……なぜといってその仔猫が
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