う》とで、鞄は崖《がけ》を越して海へ。
その鞄は、執念《しゅうねん》深いというのか、海上を漂《ただよ》ううちに海岸へ漂着《ひょうちゃく》した。元村《もとむら》の桟橋《さんばし》のすぐそばであった。
警官が聞きこんで、その鞄を検分《けんぶん》に来た。彼は東京からの指令《しれい》を憶《おぼ》えていたので、早速《さっそく》「それらしきもの漂着す」と無電を打った。
折返し、新しい指令が来た。警官たちは忙しくなった。旅館は一軒のこらず臨検《りんけん》をうけた。
その結果、目賀野が見つかって、飛行機で到着したばかりの田鍋課長の前へ呼び出された。
目賀野は、その鞄と無関係であることを主張した。いわんや殺人事件などは思いもよらないと抗弁《こうべん》した。
三日間、のべつに取調《とりしらべ》がつづけられ、目賀野が陳述《ちんじゅつ》した重要事項は、次のようなことであった。
「別に悪いことをした覚《おぼ》えはありません。君も知っているとおり、昔からわしは曲ったことは大嫌いだ。……しかし、ちょっと慾《よく》の気《け》は出した。例のラジウム二百|瓦《グラム》の入った鉄の箱が、この三原山の噴火口《ふんかこう》の中に投げこんであると耳にしたもんだから、なんとかそれを取出そうと思ってね。いや、取出せばその筋《すじ》へ届けるつもりだった、本当です。しかし世間を呀《あ》っといわせたかった。そこで思いついたのが、赤見沢博士の研究だ。重力消去の実験に成功していることをわしは知っていたので、博士にそれを使った一種の起重機《きじゅうき》の製作を依頼したのです。そのトランクは、すなわちその品物だったかもしれない。いや、その種の試作品だったかもしれない。要するにその装置を噴火口の中へ投げ入れておくと、火口底《かこうてい》において巧《たく》みにラジウムの入った鉄函《てつばこ》を吸いつけ、あとは重力消去によって噴火口をのぼり、上へ現われ、わが手に入るという計画だった。生《なま》の人間じゃ、とても火口底へは下りられないんでね。……が、その博士がわしのところへ来てくれる約束の日に、途中であの事件に遭《あ》って、あんなことになるわ、そばにあったトランクは、早いところ何者かによって掏《す》りかえられていたので、わしはすっかり失敗してしまった。たったこれだけのことです。すこしも怪しい点はない。元村へ来て泊っていたのも、別な手段でラジウムを取出す方法を研究に来たわけで、あのトランクには関係がないです。これはよく分ってもらわにゃ大迷惑《おおめいわく》だ。……臼井はどこへ行ったか知らん。船に乗っていたが、その後脱走したそうで、わしは知らん」
この陳述によって、あらまし筋は分って来たようである。
つまるところ、目賀野は本事件の主役ではなく、その傍系《ぼうけい》のドンキホーテ染《じ》みたところのある人物に過ぎないのだ。
「例のラジウム二百瓦が三原山の噴火口に投げこんであることは、いつ誰から訊《き》いたか」
課長は、最も重大なるところを突込《つっこ》んだ。
「そのことかね。それはあの臼井が、いつだったか、密書《みっしょ》を拾ったんだ。その密書に簡単ながら、そういう意味のことが書いてあった。その密書は臼井が持っている。わしではない」
「その密書の差出人《さしだしにん》は誰か。また受取人は誰なのか」
「名前ははっきり書いてなかった。ただ、差出人の名前に相当するところには、矢を二つぶっちがえた印が捺《お》してあった」
「矢を二本ぶっちがえた印が、ふうん。そして受取人の方には……」
「受取人の名前に相当する場所には、三本足の黒い烏《からす》の絵が書いてあった」
「何という、三本足の黒い烏の絵が?」
と、課長は驚愕《きょうがく》の色を隠《かく》しもせずに叫んだ。
「どうした課長。烏の絵になぜそんなに愕《おどろ》くのか。一体[#「一体」は底本では「体」]それは誰のことなんだ」
目賀野はいい気になって反問《はんもん》した。
「それは恐《おそ》るべき賊《ぞく》のしるしだ。烏啼天駆《うていてんく》という怪賊があるが知っているかね」
「ああ、怪賊烏啼か。烏啼のことなら聞いたことがあるが、若いくせに神出鬼没《しんしゅつきぼつ》の悪漢だってね。一体どんな顔をしているのかな、その烏啼というやつは……」
「それがよく分らない。烏啼と名乗《なの》る彼に会った者は誰もない。しかし脅迫状《きょうはくじょう》などで、烏啼天駆の名は誰にも知れ亙《わた》っている」
「捜査課長ともあろう者が、そんなぼやぼやしたことで、御用が勤《つと》まると思うのか」
「何をいう。いい気になって……」
課長は目賀野を元の留置場《りゅうちじょう》へ戻した。
怪賊《かいぞく》烏啼《うてい》
そのあとで課長は溜息《ためいき》ばかりついていた。この二つの事件に、怪賊|烏啼天駆《うていてんく》が関係しているとは、目賀野の話で始めて分った。そうなると、これはますます事が面倒《めんどう》になってくる。ありとあらゆる検察力を発揮《はっき》しないと、烏啼を引捕えることは出来ない。しかし、一体どこから手をつけていいか、分別《ふんべつ》がつかない。こういうときに帆村が居てくれれば、どんなに力になってくれるか分らない。が、彼にはこの事を知らせずに、この大島へ来てしまったことが後悔《こうかい》された。
だが、その帆村が、ひょっくりと課長の前に現われたもんだから、田鍋はおどろき且《か》つよろこんだ。彼は早速《さっそく》、この事件に烏啼天駆が関係していることを帆村に語って、帆村の助力をもとめた。
「それはいいことが分ったもんです。いや実は、僕が今日飛行機でここへ飛んで来たのは、本庁からの依頼で、あなたに手紙を持って来たのです。さあ、これを読んで下さい」
と、帆村は内ポケットから手紙を出して、課長に渡した。それは課長の次席にいる主任の芥川《あくたがわ》警部からのものだった。手紙の内容は、これまた愕《おどろ》きの一つだった。
「えっ、赤見沢博士が昏睡状態《こんすいじょうたい》から覚《さ》めたというか。そして君は博士に会って話をして来たって?」
「そうなんです。その結果、いろいろと分って来ましたよ。第一に、博士はあの晩、只《ただ》の鞄の中に、例のお化け鞄――つまり重力消去装置の仕掛けてある立派な把柄のついている鞄を入れて、電車に乗ったんだそうです。決して角材《かくざい》や古新聞紙は入れなかったといいます。つまり賊は、博士の鞄とそっくりの鞄を用意し、その中に角材を入れて、二重鞄と同じ位の重量とし、博士の鞄と掏《す》りかえるつもりだったらしい。博士は言明《げんめい》しています、自分が座席に座っていると、よく似た鞄を持った乗客が近寄って来て、博士の前に立ったそうです」
「そやつが怪しい!」
「そうです。誰が聞いても怪しい奴《やつ》ですが、そのとき博士は大いに要慎《ようじん》して、自分の持っている鞄を奪《うば》われまいとして、一生懸命|抱《かか》えこんだそうです。すると怪しい乗客の連《つ》れである若い女が博士の方へ身体をおっかぶせるようにのしかかって来て、女の膝《ひざ》が博士の膝を強く押した、すると急に博士は気が遠くなってしまったんだそうです」
「どうしたのだろう」
「女の膝から博士の膝へ、或る麻薬《まやく》の注射が施《ほどこ》されたんでしょうね。博士は、そういえばちくりとしたようだといっています。――それから博士は、意識の朦朧《もうろう》たる裡《うち》にも、膝の間に挟《はさ》んでいた鞄が掏《す》りかえられるのに気がついたそうです。しかし声を出そうにも手をあげようにも、どうにもならなかったそうです。そしてそのうちに何もかも分らなくなった……」
「怪しい奴は、すると男と女と二人組なんだね」
「そうなんです。これが頗《すこぶ》る重大な事柄《ことがら》なんですが、田鍋さん、博士はその男女の顔をよく覚《おぼ》えているといって、人相を話してくれましたが、男も女もなかなか目鼻の整《ととの》った美しい人物だったといいますよ」
「えっ、何という。美男美女だって?」
「正に美男美女なんです。そしてそれがですよ、ほら博士邸が焼けた晩ね、あの晩に研究室にいて小山すみれを相手にしていた若い美貌の男――万沢とかいいましたね――あの男とそれから後にピストルを持って現われた美人がありましたね、あの女と、この両人《りょうにん》らしいのですよ」
「ふーん、そうか」
田鍋課長は、満面を朱盆《しゅぼん》のように赭《あか》くして、膝を叩いて呻《うな》った。
「ね、課長さん。さっきあなたから伺《うかが》った話から誘導《ゆうどう》すると、その美貌の男こそ、烏啼天駆《うていてんく》でなければならないと思うんですが、課長さんの意見は如何ですか」
帆村は、大胆なことをいった。
「そうかもしれない。いや、それに違いない。あれが烏啼なら、あのとき逃がすんじゃなかった。で、女は何者か」
「それが分らないのです。しかしですよ、この事件の主軸《しゅじく》には、二つの者が功を争っていることは、僕も察していました。例えばあの紛失鞄の新聞広告のことですね。
あの広告主の一人は烏啼天駆であり、もう一人はやっぱりあの女だったんですよ」
「ふうん、なるほど、そういえばそうかもしれない」
「あの二人は、時に一緒になって働きました。その例は、博士から鞄を奪《うば》ったときなんかがそれです。それでいて、二人は大いに睨《にら》み合《あ》っていたんですね。だから博士邸のピストルさわぎも起った。あれはお化け鞄が紛失したのに困った烏啼が、小山すみれを唆《そそ》のかして、猫又を利用した新規の起重装置をこしらえるように頼んだ。それが完成したので、持って帰ろうとしたところを、例の女が嗅《か》ぎつけて、暴《あば》れこんだという訳なんでしょう」
「そうだ、それに違いない。するとわが輩《はい》も大迂回《だいうかい》をやっていたわけだ。ちえッ、いまいましい」
天罰《てんばつ》下る
事件は、そこまでは解《と》けた。
当局は警戒網《けいかいもう》を三原山のまわりに厳重に固《かた》めめぐらした。
その一方、大学に懇請《こんせい》して、火口底《かこうてい》に果してラジウム二百|瓦《グラム》が投げこまれてあるのかどうかを検《しら》べて貰った。これは案外苦もなく分った。たしかにラジウムは火口底の南寄りの岩の間にあることが確認された。
しかし、そのラジウムを取出す方法はちょっと簡単には出来そうもないことが分り、当局は未だに警戒の陣をゆるめないで番をしている。なにしろその後、烏啼の消息《しょうそく》がさっぱり分らないので、油断《ゆだん》はならないとのことであった。
帆村はもうラジウム事件には、大した興味を持っていない。しかし田鍋課長が、彼に自慢らしく語ったところでは、烏啼はあのR大学の研究所のラジウム保管室の向いの研究室の助手に化《ば》けこんでいて、あのラジウムを巧《たく》みに盗《ぬす》み出した。それから彼は、かねて連絡をつけてあった看護婦の秋草《あきくさ》に渡した。秋草はそれを持って出て、某《ぼう》飛行場へ急行し、烏啼の一味である矢走という男をして、その品物を飛行機でもって三原山の噴火口に投げおとさせたと認める。例の美男美女というのは、この烏啼と秋草らしいといわれる。研究所の同僚たりし人々は、確かに彼ら二人を、美男美女と認めているから、間違いないと、田鍋課長はいささか得意で、椅子《いす》の背にふん反《ぞ》りかえった。
帆村の興味は、そんなことよりも、大島の松の木にひっかかっていたお化け鞄と猫又の死骸と血染《ちぞめ》の細紐《ほそひも》が、何を語っているか、それを解くことに懸《かか》っていた。
その年の春、ひどい海底地震が相模湾《さがみわん》の沖合《おきあい》に起り、引続いて大海嘯《おおつなみ》が一帯の海岸を襲った。多数の船舶が難破《なんぱ》したが、その中の一隻に奇竜丸《きりゅうまる》という二百トンばかりの船があって、これは
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