、酒田の物忘れについての疑惑《ぎわく》など、いろいろのことが入りくんでややこしくなったのであるが、誰しもまさかトランクが悠々と絨氈の上から腰をあげ、明け放しの硝子戸の間から、朧月夜《おぼろづきよ》の戸外へと彷徨《さまよ》い出たものとは思わず、その事実を推理し得た者はなかったのである。
それからそのトランクはどういう出来事にぶつかったか。
外濠《そとぼり》の堤の松の下の暗闇《くらやみ》を連れだって行く若い女と男とがあった。女は男に対して強硬な態度をとって、男を引放してずんずん足を早めていた。その女はやがて――そのままで推移せば男のために締め殺されて、枯草の上に身を横たえなければならないのであったが、運命のくすしき足取は、女の生命を危局の寸前に救った。それは今や鼠《ねずみ》に向って躍りかかろうとする猫の如きその男の腰に、どすんと突き当った赤革のトランク一箇――女は生命を捨てずに済んだ。男は荒療治《あらりょうじ》を決行するに及ばなかった。男も女も、一応|妖異《ようい》に対する恐怖心を起しかかったが、それは慾心によって簡単に撃退された。開いた鞄の中のすごい内容物はあらゆる問題を解決した。女
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