めトランクをゴム靴を並べてあるその上に置くと、トランクの懸金《かけがね》をひらいて開けてみた。が、トランクの中には何も入っていなかった。全くからっぼであったのだ。
 彼は拳固《げんこ》をこしらえると自分の頭をごつんと一撃してからそのトランクの口を閉《し》めて再び店の一隅へ並べた。
 しばらくは何事もなかった。
 ところがそれから二三十分経ったと思われる後のこと、例のトランクは再び、のそのそと店から外へ匐《は》い出《だ》していったのである。店員はそれを見て知っていた。そのトランクを後から抱き停めなければ損をする虞《おそ》れがあるという気持と、気味がわるくて手が出せないという気持が、彼の心の中で闘いを始めた。そのうちに鞄は往来へ飛び出し、彼の眼界から失せた。そこで彼の心の中に怫然《ふつぜん》と損得観念が勝利を占め、彼はゴム靴の海を一またぎで躍り越えて往来へ飛び出した。そのとき彼はなぜか声が出なかったそうである。大声で叫んで人々を集めればよろしかったのにも拘《かかわ》らず、なぜか無言のままだった。それは多分、そのとき軽率《けいそつ》に叫び声をあげて人々にこの事件を知らせたが最後、結局は彼自身
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