ら何気なく格子の外を覗《のぞ》いた、折柄《おりから》二十日あまりの月光が白々と明るく一面の焼跡と街路を照らしていたが、そこへ突然かのトランクが現われて、主人の目の前をすたすたゆらゆらと通り過ぎていったのだそうな。
「寝呆《ねぼ》けていたんじゃねえよ。へん、この世智辛《せちがら》い世の中に誰が寝呆けていられますかというんだ。信用しなきゃいいよ。とにかくおれは、ちゃんとこの二つの眼で鞄の化物を見たんだから……」
 と、その目撃者はたいへん自信に充ちて放言《ほうげん》したという。
 だが、およそ常識のある者なら、かの自称目撃者の言葉を信じようとはしないだろう。奴凧《やっこだこ》や風船なら知らぬこと、重いトランクが横に吹き流れて行くとは思われない。
 では、トランクの幽霊《ゆうれい》か。トランクに霊あるを未《いま》だ聞いたことがない。
 結局この噂話は、一篇の笑話と化して笑殺《しょうさつ》されるようになったが、その頃、また別の噂が後詰《ごづめ》のような形で伝わり始めた。それはやっぱり鞄|変化《へんげ》に関するものであった。
 何でも新宿の専売局跡の露店《ろてん》街において、昼日中《ひるひなか》
前へ 次へ
全85ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング