彼は、天を恨《うら》むより外《ほか》、なかった。車を下りてみると、森の向うは、まるで地獄のように、引繰《ひっく》りかえっていた。あの広壮《こうそう》な建物という建物は一つとして影をとどめず、壁は、歯のぬけた歯茎《はぐき》のようになっていた。彼は、これより内へ入るべからずという縄張《なわばり》のところまで出て、すっかり見ちがえるような監獄跡に佇《たたず》んで、しばし動こうともしなかった。
運転手が、彼の耳に囁《ささや》いた。
「旦那、あのへんで、三千五百名の囚人と、それから七百名の監獄役人とが、崩れた建物の下で、一ぺんに、蒸《む》し焼《や》きになってしまったんですよ。そして、このとおり綺麗なものでさ。残っているのは、煉瓦とコンクリートばかりだ。いや、それから、あの鉄の門と……」
仏天青は、なぜ天は、こう意地悪なのであろうかと、深い溜息をついた。第二のプランも、ついに駄目だった。
14
第三の、そしてこれが最終のプラン――というので、仏天青《フォー・テンチン》は、リバプールの町にある精神科病院の門をくぐった。
院長ドクター・ヒルは、五十を過ぎた学者らしい人物だったが、甚《はなは》だ丁重《ていちょう》に、仏天青を扱った。
「そういう病気は、今次の戦争において、極めて例が多いのですよ。今|拝見《はいけん》しましたところによると、やはり、爆弾の小破片が、脳髄《のうずい》の一部へ喰い込んでいるようですな」
「じゃあ、手術をして、その小破片を取出せばいいわけですね」
「さあ、それは専門外科医に御相談なさるがいいでしょうが、私の経験では、そういう脳外科の手術の成功率は、残念ながら、まだ低いものです。よほど考えておやりなることを御注意いたします」
すると、手術は、よほど考えなくてはならぬことになる。
「院長、私の記憶を恢復する他の方法はありませんでしょうか」
「そうですねえ。私の経験によれば、あなたのような場合、脳が健康さを取戻していても、神経と連絡がついていないことがよくあります」
「それは、どういうのですな」
「つまり、障害をうけたとき、患部附近に、充血《じゅうけつ》とか腫脹《しゅちょう》が起って、神経|細胞《さいぼう》に生理的な歪《ゆが》みが残っていることがある。この歪みを、うまく取去ることが出来ると、ぱっと、目が覚めるように過去の記憶を呼び戻すことが出来るのですがね」
「なるほど、歪みを取去る方法ですか。それは、どうすればいいのですか」
「歪みといっても、生理的神経的なものですから、それと同じ方法によらねばならない。生理的神経的に、或る強い刺戟を受ければいいということはわかっているが、さて、その刺戟は、一体どんな刺戟であるかということになると、さっぱり分らない」
「なぜ、分らないのですか」
「それは、つまり、こうでしょう。仮《か》りに、あなたが、一婦人と非常に争っていた。そのとき、婦人がピストルの引金を引いて、あなたの頭へ、弾丸《たま》の破片を撃ちこんでしまった、これは仮定ですよ。もしもこういう場合に、あなたのような記憶亡失《きおくぼうしつ》の障害が起って、脳が健康を取戻しても、尚且《なおか》つ記憶が恢復しない。そういうときに、癒《なお》った実例があるのです。もう一度、その婦人と、ひどい争いをした。婦人は、またピストルを撃った。そして今度は、彼の前額《ぜんがく》を僅かに傷つけた。すると、とたんに、彼の記憶が戻った。彼は、戦闘を中止して、その婦人を生命の恩人だといって抱きあげた――という例があるのです」
「それは、興味ふかい話ですね。それを私の場合に活用する途《みち》はないでしょうか。まず無理でしょうね」
「そうです。無理という外ありますまい。今申した例は、偶然の機会が、それを癒したのです。医師が計画した治療法ではない」
「なるほど」
「ですから、あなたの場合でも、もし運がおよろしくて、その障害を起した当時と同じ事件の中に置かれ、同じような負傷でもなされば、或《あるい》はそれがうまくいって、記憶の恢復が起るかもしれません。しかし何分《なにぶん》にも、これは計画的にやって見ることの出来ないことなので、困りますなあ」
「ほう、生理的神経的の歪みですか。そしてこれを復習する極めて稀《まれ》な幸運ですか。いや、お蔭さまで、諦《あきら》めがついてきました」
「それから、あなたが記憶亡失前に持っていられた所持品《しょじひん》についてはもっと詳しく、科学的調査をおやりになるがいいでしょうね。これは一種の探偵術ですが、従来《じゅうらい》の例に徴《ちょう》しても、所持品からの推理によって昔、あなたが住んでいられた世界や職業や、それから家族のことなどを、立派に探しだすことに成功した例があるのです」
それを聞くと、仏天青は、俄《にわか》に目を輝かせて、室の隅に置いてあった手提鞄《てさげかばん》を、卓子《テーブル》のうえに置いた。
「院長、では、これを見て、判断していただきましょう。当時、私が身につけていたものは、大切に、皆ここに蔵《しま》ってあるのです」
そういって、彼は、鞄を開くと、中から、長い中国服を出し、それから汚れきった破れ目だらけの服を出し、ぺちゃんこになったパンに新聞紙に、それから異臭《いしゅう》を放つ皺《しわ》くちゃのハンカチーフ迄、すっかり卓子のうえに取出した。
「その外に、この貯金帳が二冊あるのです。院長、お分りになりますか」
「さあ、私では駄目なんですがねえ」
といいながらも、ドクター・ヒルは、そこに並べられた品物を、一つ一つ、念入りに拡大鏡《かくだいきょう》の下に見ていたが、やがて腰を伸ばし、
「私の拝見したところで、最も興味を惹《ひ》かれるものが二点あります。それは、この汚れ切って破れ目だらけの服と、それからもう一つは、油じみたハンカチーフです」
「はあ、そうですか。そんなものが、私の素姓《すじょう》について、一体なにを語っていましょうか」
「さあ、それは、私の力では、はっきり解《と》いてお話することが出来ないのです。こういう方面にすこぶる明るい私の友人を御紹介しましょう。アーガス博士といいますが、クリムスビーに住んで鑑識研究所を開いています。そこへいらっしゃるがいいでしょう。このズボンについている泥だとか、ハンカチーフについている血や油などについて、彼はきっと、あなたをびっくりさせるに充分《じゅうぶん》な鑑定《かんてい》をなすことでしょう」
「あ、そうですか。それは、実にありがたい。アーガス博士でしたね」
「そうです。博士は、ひところ、警視庁でも活躍していた人ですが、今は、自分の研究所に立て籠《こも》っています」
「クリムスビーですか。どこでしょうか、その、クリムスビーというのは」
「クリムスビーというと、北海《ほっかい》へ注《そそ》ぐハンバー河口《かこう》を入って、すぐ南側にある小さい町です。河口は、なかなかいい港になっています」
「はあ。北海に面した良港の中にあるのですね。じゃあ、私はすぐ、そのクリムスビーへいって、アーガス博士にお願いしてみましょう」
「いま、紹介状を書いてさし上げます、ミスター・F!」
15
午後遅くクリムスビーの駅に下りて、仏天青《フォー・テンチン》はおどろいた。こんなものものしい警戒は、はじめて見た。
“中国大使館参事官仏天青氏を御紹介す。アーガス博士殿”
というドクター・ヒルの紹介状が、とんだところで効《き》き目をあらわして、仏は、無事に駅の階段を、町へ降りることが出来た。
「アーガス博士の鑑識《かんしき》研究所へやってくれないかね」
駅の前に待っているタクシーの運転手に話しかけると、黙って、隣りを指した。
タクシーの隣りには、馬車があった。老人の馭者《ぎょしゃ》が、この喧噪《けんそう》の中に、こっくりこっくり居眠りをしていた。馬車とは愕《おどろ》いたが、
「アーガス博士の鑑識研究所へいってくれるかね」
と、仏が大きい声で怒鳴《どな》ると、馭者の老人は、やっと目を覚ました。そして二三度、丁寧に聞き返した後で、さあ乗って下さいといった。
馬車は、雑閙《ざっとう》する町を後にして、山道にかかった。
「爺さん、鑑識研究所だよ」
「わかっていますよ。鑑識研究所は、この山のうえだ。あと三十分かかるよ」
「なあんだ、山の上に在《あ》るのか」
馬車にゆられていくほどに、仏天青は、眼下に開けるハンバー湾のものものしい光景に、異常な興味を覚えた。
河口《かこう》には、たしかに防潜網《ぼうせんもう》を吊っているらしい浮標《ブイ》が、夥《おびただ》しく浮び、河口を出ていく数隻《すうせき》の商船群《しょうせんぐん》の前には、赤い旗をたてた水先案内《みずさきあんない》らしい船が見えるが、これは機雷原《きらいげん》を避《さ》けていくためであろう。またはるかに港外には駆逐艦隊《くちくかんたい》が活発《かっぱつ》に走っていた。
(ドイツ軍の上陸作戦を、極度《きょくど》に恐れているのだな)
仏《フォー》は、河口の異風景《いふうけい》に気を取られているうちに、馬車は、いつの間にか、小さい山を一つ登って、鑑識研究所の前についた。
仏は、門衛《もんえい》に、刺《し》を通じた。
門衛は、紹介状の表を見て、本館へ電話をかけた。
「所長は、生憎《あいにく》出張中ですが、今夜あたり、ここへお戻りです。副長《ふくちょう》からのお話ですが、明朝《みょうちょう》、もう一度、御出で願うか、それとも御急ぎなら、所に附属している宿泊所《しゅくはくじょ》で、お待ちになってはということでございますが、どっちになさいますか」
「そうですか。では……では、宿泊所へ案内して頂きましょうか。私は、早く博士にお目に懸《かか》りたいのでしてね」
「よろしゅうございます」
門衛は、別なところへ、電話をかけた。そして、副長の命令により客人《きゃくじん》のため室を用意するようにいった。
「今、宿泊所の女が迎えに参りますから、ちょっとお待ちを」
仏天青《フォー・テンチン》は、礼をいって、鞄《かばん》を下に置いた。
「なかなかここは眺望《ちょうぼう》もいいし、そして広大ですね」
「そうです。ここは王立《おうりつ》になっているのですからなあ」
そのうちに、だんだんあたりは薄暗《うすぐら》くなった。
「どうしたのか、宿泊所の者は……」
門衛は、窓から伸びあがって、奥の方を見ていたが、
「あ、来ました。さあ、どうぞ」
砂利《じゃり》を踏む音が聞えた。エプロンをかけた若い女が、迎えに来た。仏は、その女の顔を見たとき、もちっとで呀《あ》っと叫ぶところだった。その女も、愕《おどろ》いて、思わず足を停めた。
「おい、ネラ。ドクター・ヒルの紹介の方だから、さっきいったように、丁重《ていちょう》にナ」
「は、はい」
ネラ? ネラは、門衛から、仏の鞄《かばん》を受取った。
「どうぞ、こちらへ……」
仏は、ネラと呼ばれる女と、藍色《あいいろ》ようやく濃い研究所の庭を、砂利をふみつつ、奥の方へ歩いていった。
「アン」
「はい」
「君は……いや、もうなにもいうまい」
仏天青を迎えに出たネラは、アンであったのである。彼のふしぎな妻であったのである。
「あたくし、愕きました。どうなさいます、あなたは……。復仇《ふっきゅう》をなさいますか?」
「……」
仏は、嵐のような激情《げきじょう》の中に、やっと躯を支《ささ》えていた。それが、せい一杯だった。
「なぜ、御返事がありませんの」
「アン、お前は、ここで何をしているのか」
「あなた。この前のように、あたくしを愛していてくださいません?」
アンは、別なことをいった。
「……もし、愛していたら……」
仏は、やっとそれだけいった。
「ああ、あたくしを愛していてくださるんですね、お叱《しか》りもなく……。一生のお願いがありますわ。聞いてくださる?」
「……聞かないとはいわない」
「ほほ、消極的な御返事ね。お願いしたいというのは……どうか明朝まで、あたくしがここにい
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