まうなんて……)
 と、そのときは、当惑したものであるが、しかるに只今、彼の身辺《しんぺん》には、二人妻どころか、只の一人も、妻がついていないのであった。彼は、全く変な気がした。……
 そんなことを考えつづけているとき、さっきから、彼をこっぴどい目にあわせた車掌が、彼の前を通りかかった。
「もし、車掌さん。前の列車にいるアンと、連絡がつきましたかね」
 彼は、胸を躍らせて、車掌の返事を待った。
「そんな乗客は、いなかった。尤《もっと》も、私は、始めから、君の言葉を信用していなかったが……」
「そんなことは嘘だ。アンは待っている」
「嘘ですよ。中国人は、見《み》え透《す》いた嘘を、平気でつくものだ。日本人は、そんなことをしない」
 車掌は、そういって、彼の手をすげなく振り切って、向こうへ行ってしまった。
「そんな筈はない……」
 彼は、拳《こぶし》を固《かた》めて、自分の膝のうえを、とんとんと叩いた。
「そんな筈はない。あの車掌め、中国人を侮辱する怪《け》しからん奴だ」
 彼は、爆発点に達しようとする憤懣《ふんまん》をおさえるのに、骨を折った、孤立無援《こりつむえん》の彼は……。
 列車旅行は、ますます不愉快さを高めていった。列車が、駅へつくたびに、彼は、車窓《しゃそう》から顔を出して、もしやアンの乗っている列車が、同じホームについて、待っていないかと、一生けんめいに探したのであった。
 そのうちに、こんな考えが、ふと頭の中に浮んだ。
(アンは、おれを捨てていったのではあるまいか。そうでなければ、バーミンガムの次の駅で下りて後から遅れて来るおれの列車を、待っている筈《はず》じゃないか)
 アンは、彼を捨ててしまったのであろうか。とにかく、彼のために親切でないことだけは確かである。
(すると、やっぱり、あのボジャック氏というのが、アンの亭主《ていしゅ》であったのか。そしてボジャック氏、すなわちフン大尉という筋書か!)
 彼は、胸糞《むなくそ》がわるくなって、ぺっと、床《ゆか》に唾を吐いた。すると、隣りにいたイギリス人が、こっぴどい言葉で、彼の公徳心《こうとくしん》のないことを叱りつけた。
 彼は、なんだか、もう生きているのが味気《あじけ》なくなった。
 その味気なさは、列車がロンドンに着いてから、更に深刻味《しんこくみ》を加えた。
 なぜといって、彼が最後の頼みとしていたところに反して、ホームの上には、彼を待っているアンの姿が、見当らなかったのであった。
 車掌は、彼を、駅の会計室へ引張っていこうとした。彼は、それを後にしてくれと拒《こば》んだ。そして暴れた。車掌は仕方なく、彼のあとについて、彼と共に、改札口の外に出、それから駅の中をぐるぐると廻り、そして、掲示板《けいじばん》という掲示板の前を巡礼《じゅんれい》させられた。その揚句《あげく》の果《はて》に、仏天青は、遂に病人のように元気を失ってしまった。そして車掌に言った。
「おれのする事は、もう終った。さあ、今度は、どこなりと、君が好きなところへ、引張っていきたまえ。あーあ」


     12


 彼は、空襲警報と爆撃の音とを子守唄として、三日間を、ホテルの中で、眠ってばかりいた……
 ロンドン駅についてから、彼は一旦《いったん》警視庁の手に渡り、それからものものしい借用証書《しゃくようしょうしょ》に署名して、やっと放免された。
 それから彼は、乗車賃の借りをかえすためにも又生活をするためにも、金が必要だったので、英蘭《イングランド》銀行へいって払出書《はらいだししょ》を書いた。ところが、銀行からは、体《てい》よく断られてしまった。どうも、サインが前のものと違っているから、帳簿に乗っているとおりのものを思い出してくれというのであった。
 彼は、かーっとなったが、それでも、虫を殺して、一旦銀行を出た。
 銀行を出ようとして、彼が、掲示板の中に、パリ銀行のロンドンに移転してきた告知《こくち》ポスターを見落したとしたら、彼の上には、もっと深刻なるものが降ってきたことであろう。幸《さいわ》いにも、彼は、それに気がついたので、その足で、パリ銀行の臨時本店へいってみた。そこで彼は、十万フランの払出請求書《はらいだしせいきゅうしょ》を書いた。すると行員《こういん》は、気の毒そうな顔をした。また、駄目かと、彼は苦《にが》い顔をしたが、行員は、
「誰方《どなた》にも、只今、一日五千フラン限りとなっていますので、事情《じじょう》御諒承《ごりょうしょう》ねがいます」
 といった。彼は、それならばというので、請求書を五千フランに書き改めると、銀行では、それに相当する英貨《えいか》で、払ってくれた。彼は、やっと大|安堵《あんど》の息をついた。これで、乾干《ひぼ》しにもならないで済《す》む。
 それから、彼は、このホテルに逗留《とうりゅう》することとなったのである。
 休養だ! そして睡眠だ!
 彼は、ただもう昏々《こんこん》と眠った。空襲警報が鳴っても、ボーイが、よほど喧《やかま》しくいわないと、彼は、防空地下室へ下りようとはしなかった。地下室の中でも、彼は、遠方から地響《じひびき》の伝わってくる爆撃も夢うつつに、傍《かたわら》から羨《うらや》ましがられるほど、ぐうぐうと鼾《いびき》をかいて睡った。
 三日間の休養が、彼を非常に元気づけた。彼は、アンに捨てられたことを自覚し、そしてアンのことを思い切ろうと決心した。そんなことが、一層彼の頭の中から、苦悩を取り去ったものらしい。
 四日目、五日目は、ドイツ機の空襲が、ようやく気に懸《かか》るようになった。彼はようやく常人化《じょうじんか》したのであった。
 六日目は、朝から市中へ出て、爆撃の惨禍《さんか》などを見物して廻った。爆撃されているところは、煉瓦《れんが》などが、ボールほどの大きさに砕《くだ》かれ、天井裏《てんじょううら》を露出《ろしゅつ》し、火焔《かえん》に焦げ、地獄のような形相《ぎょうそう》を呈《てい》していたが、その他の町では、土嚢《どのう》の山と防空壕の建札《たてふだ》と高射砲陣地がものものしいだけで、あとは閉《しま》った店がすこし目立つぐらいで、街はやっぱり華美《かび》であった。
 防毒面《ぼうどくめん》こそ、肩から斜めに下げているが、行きずりの女事務員たちは、あいかわらず溌剌《はつらつ》として元気な声をたてて笑っていたし、牝牛《めうし》のように肥えたマダムは御主人にたくさんの買物を持たせて、のっしのっしと歩いていた。彼らは、ロンドンの空一杯に打ちあげられた阻塞気球《そさいききゅう》を、ひどく信頼しているのか、それとも、自分だけには、ドイツ軍の爆弾が命中しないと信じているか、どっちかであるように見えた。
 その日、半日の散歩で、彼は自分が、世の中から忘れられた人であることに気がついて、それがどうも気になってたまらなかった。やっぱり彼は、何を置いても、自分の素姓《すじょう》を知ることが先決《せんけつ》問題であると、そこに気がついた。
 今や元気と常識とを取り戻した彼は、勇躍《ゆうやく》して、その仕事《ビジネス》についた。また新たに、生きている張合《はりあ》いといったものが感じはじめられた。彼は、ふしぎに自分の体が、軽くなったように思った。
 彼は、まず手始めに、中国大使館へ出向いた。そして、自分は仏天青《フォー・テンチン》であるが、自分の素姓は、どういうものであるか、果して、大使館参事官であるか、どうかと、たずねた。そして記憶を失ったことや、記憶|恢復《かいふく》後において身近に起った事件を、差支《さしつか》えない範囲で、受附の前にくどくどと説明したのであった。
「大使|閣下《かっか》は、御不在《ごふざい》です。そしてわが大使館には、あなたのような名前の参事官はいません。御返事は、これだけです」
 と、木で鼻をくくるような挨拶《あいさつ》だった。
「本当ですか。本当のことを教えてもらいたいものです。私は気が変ではありませんよ」
「誰でも、そういうよ」
 と、受附子《うけつけし》の言葉が、急に乱暴になって、
「わしは、ロンドンに二十年も在勤しているが、ついぞ、仏天青などというおかしな名前の参事官があった話を聞かないね。家へかえって、内儀《かみ》さんによく相談してみたらいいでしょう」
 折角《せっかく》いい機嫌になった彼は、大使館に於けるこの押し問答によって、また憂鬱《ゆううつ》を取り戻した。なんという頭の悪い、そして礼儀知らずの館員だろう。彼は憤然《ふんぜん》、大使館の門を後にした。そしてもう、こんなところへ二度と来るものかと思った。
 彼が、門を出ていってしまった後で、受附子は、にがにがしい顔をして、
「どうも、空爆のせいで、気が変な人間が殖《ふ》えて来るよ。わしは、この頃、世話ばかりやっているが、あいつが大使館参事官なんて、とんでもない奴だ」
 といいながら、ふと気がついて、書棚《しょだな》から在外使臣名簿《ざいがいししんめいぼ》を取り出して、頁《ページ》をくった。そのうちに、彼は、びっくりしたような声を出した。
「あっ、仏天青、駐仏《ちゅうふつ》大使館参事官! あっ、ここにあったぞ。この頃は、新任の連中が殖えて、一々名前を憶えていられないや。しまったなあ。このまま放って置けば、この次に来たとき、こっぴどい目に会うぞ。よし、追駆《おいか》けてみよう」
 受附子は、ちょっと顔色をかえると、あわてて、外へ飛びだした。
 だが、このときには、もう彼の姿は、どこにも見当らなかった。


     13


 仏天青《フォー・テンチン》は、列車にのって、リバプールに急ぎつつあった。
 駐英大使館では、彼は、大きな侮辱《ぶじょく》をうけた。そして朗《ほがら》かな気持がまた崩《くず》れてしまったのだ。
 この上は、リバプールを通って、ブルートの監獄へいき、そこに残っている彼の素姓調書《すじょうちょうしょ》を見るより外《ほか》なしと考えた。
 十時間の後、彼はリバプールにいった。その夜は、ドロレス夫人の宿に泊めてもらうつもりで、この前の淡《あわ》い記憶を辿《たど》って、見覚えのある露地《ろじ》へ入りこんでいった。
 だが、ドロレス夫人の宿は、見当らなかった。ただ、一軒、入口の硝子《ガラス》が、めちゃめちゃに壊《こわ》れている空家《あきや》が目についた。どうもその家が、ドロレス夫人の宿だったように思うのであるが、入口の壁には、
“立入るを許さず。リバプール防諜指揮官《ぼうちょうしきかん》ライト大佐”
 と、厳《おごそ》かな告示が貼りつけてあった。
 彼は、妙な気持になって、他所《よそ》に宿を求めたのであった。
 一夜は明けた。
 その日こそ、彼は遂《つい》に楽しさにめぐり逢える日が来たと思った。
 監獄生活をしていたなどということは、人に聞かれても、自分に省《かえり》みても、甚《はなは》だ結構でないことだったけれど、今日こそは、その監獄に保存してある調書の中から、知りたいと思っていた彼の素姓を押しだすことが出来るのかと思えば、こんな嬉しいことはなかったのである。
 彼は、車を頼んで、ブルートの町へ急がせた。
「旦那、ブルートの町へ来ましたが、どこへいらっしゃいますね」
「もうすこし先だ。左手に、くるみの森のあるところで下ろしてくれたまえ」
「へい。すると、監獄道《かんごくみち》のところですね」
「ああ、そうだよ」
 彼は、運転手に、心の中を看破《みやぶ》られたような気がした。
「ドイツの飛行機は、監獄なんか狙って、どうするつもりですかね」
「えっ」
「いや、つまり、ブルートの監獄を爆撃して、あんなに土台骨《どだいぼね》からひっくりかえしてしまって、どうする気だろうということですよ」
「なに、ブルートの監獄は、爆弾でやられたのかね」
「おや、旦那、御存知《ごぞんじ》ないのですかい。もう四日も前のことでしたよ。尤《もっと》も、聞いてみれば、監獄の中で、砲弾を拵《こしら》えていたんだとはいいますがね」
「ふーん、そうか。やっちまったのかい」
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