逞《たくま》しい青年だった。ボジャック氏は、驚いて、座席から、ぴょんととびあがった。
「そ、そのままで、どうぞ」
 そういった仏天青は、両腕に抱えていたサンドウィッチだの南京豆だのを、座席のうえに置いた。それから、アンの方へ向いて、
「私は、さよならを言いに来たのですよ。アン! そしてフン大尉?」
 そういうと、男は、怪訝《けげん》な顔をして、自分の頬へ手をやった。
「あなた。なにを言っていらっしゃるの、どうも変ね」
 アンは、立ち上って、仏の腕に縋《すが》りついた。
 仏は、アンの身体を、ふり放そうとしたが、それはうまくいかなかった。アンの力というよりも彼の方に、新しい疑惑《ぎわく》が湧いてきたが故《ゆえ》だった。
(フン大尉と本名を呼んでやったのに、ボジャック氏は、変な顔をしたが、べつに愕《おどろ》きはしなかったぞ)
 彼の当は外《はず》れたのだった。ボジャック氏は、フン大尉ではないらしい。果して、そうかどうかは、まだはっきりしないが……
「あなた、なに仰有《おっしゃ》るのよ。ボジャック氏に笑われますわよ。うちの人は、監獄にいる間に、頭がすこしどうかしてしまったのよ。御免《ごめん》なさい、ボジャックさん」
「わたしは、べつに何でもありませんがね。御亭主さん、気が立っているようだな」
 相手の二人の間には、今もまだ芝居めいたものが感じられたが、そうまで言われて、仏天青は、これ以上、すね者扱《ものあつか》いされるのがいやだった。それは、彼の短気というか、潔癖《けっぺき》のせいであったろう。とにかく、彼は機嫌を直したことにして、座席に座った。ボジャック氏は、どうか彼の素姓《すじょう》については内密に願うと、くどくどと歎願《たんがん》したのち、ずっと後方にあるという彼の座席へ帰っていった。


     10


「あの方、フランスにいたとき、パン屋の店を出していた人よ。リバプールで、行《い》き逢《あ》ったんですけれど、警官に何かと間違えられて、桟橋《さんばし》から飛びこんだところまで、実はあたしが見ていたのよ。でも、可哀そうでしょう。あたしは、何も喋《しゃべ》りたくはなかったから、何も関係ないと、いっただけなのよ」
 アンは、そういって弁解《べんかい》したのち、いろいろと、仏《フォー》の機嫌《きげん》をとった。
「さあ、機嫌をお直しになって、買ってきていただいたもの、二人で喰べましょうよ」
 アンは喰べながらも、ひとりで、くどくどと同じことを喋った。仏は、サンドウィッチを喰べたり南京豆を噛んだりしているうちに、こんどは彼の方が眠くなった。そして、いつしか時間を忘れてしまった。
 仏天青《フォー・テンチン》が、目を覚《さ》ましたときには、列車はごとんと大きな音をたてて、立派な駅についたとこだった。ホームを見ると、バーミンガムと書いてあった。
「ああ、バーミンガムか。なにか、ありそうだな。アン、お金をお出し。おいしいものを見つけてくるから」
 仏は、アンの機嫌をとるつもりで、金を握ると、ホームへ下りていった。
 ホームは、ひどく雑閙《ざっとう》していた。何を買おうかなと思っていると、改札口の向こうで、新聞売子が、新聞を高くさし上げて、何か喚《わめ》いていた。彼は、これを買う気になってそこまでいった。
 新聞は、なによりの常識読本《じょうしきどくほん》だ。新聞を見ていると、忘れてしまった昔のことを、なにか思い出すよすがになるような気がする。
 彼が、新聞を買っているとき、不意にうしろから抱きついた者があった。
「ああ、やっと掴《つか》まえた」
 女の声だ。そしてフランス語だった。しかしアンの声ではない。
「誰!」
 仏が、ふりかえってみると、彼に抱きついていたのは、一人の中国人らしい若い女だった。
「あなた。あたし、どんなにか探していたわ。もう放れちゃ、いやよ」
「誰だ、君は」
「あなたの妻じゃありませんか。いやだわ、うちの人は。あたしを忘れてしまうなんて」
「人ちがいだ。放してくれ」
 仏は、女の様子に、変なところがあるので、彼女の手をふりほどいた。
「仏天青《フォー・テンチン》。あたしを捨てていくつもり。ねえ、仏天青」
「仏天青。おれの名前を知っているのか」
「仏天青。あたしは、妻の金蓮じゃありませんか」
 仏は、おどろいた。全く、寝耳に水の愕《おどろ》きであった。彼の名前をいいあてたばかりか、その金蓮という女は、自分は妻だというのである。
「おれの妻はアンだ。それに、今また仏天青の妻の金蓮だと名乗る女が現れた。一体、これは、どういうわけだろう。どっちが本当かしら」
 彼の頭は、こんがらがった麻糸《あさいと》のように乱れた。どうすればいいのやら、わけがわからなくなった。
 困惑《こんわく》しきっている間に、時間がたってしまった。ふと気がついてみると、列車は、動いていた。しかも最終の車両が、もうホームの真中あたりへ来て、相当のスピードを出していた。
「おい、列車、待て。ああ、アン!」
 だが、金蓮は、放さなかった。まるで、子供が母親の躯《からだ》に縋《すが》りついて放れないように、金蓮は、ますます強く、彼の躯をしめつけた。
「こらこら、また始めたな。困るね。さあ、放した放した」
 駅員が来て、放そうとしたが、金蓮は、頑張っている。
「この女、困っちまうな。中国の男の方を見れば、すぐこのとおりなんですよ」
 と駅員はいった。そのとき列車は、ホームを出ていってしまった。
「おい、放せというのに。金蓮さん、よく見てみなさい。君の主人だかどうだか、分るでしょう。ほら違う人だろう」
「あ――」
「どうだ、人違いだろう」
「ああ、違う。違うんだ、今、ここにいた仏天青は、どうした。あ、仏天青を、戻しておくれ。仏天青は、こんな顔じゃない。もっと顔が長くてりっぱないい男だ。こんな若僧《わかぞう》じゃない。早く、返しておくれ」
 女は、前とはうってかわって、彼をつき飛ばした。
「おい、金蓮。君の探している仏天青とは、どんな字を書くのかね」
 こんどは、彼が逆に金蓮の腕をつかんだ。
「どんな字を書くって。こういう字だよ。あれっ、あたしは、忘れちまったよ。あそこに、書いたものを落して来た。ああ、誰かに拾われると、たいへんだ。仏天青を拾っちゃいけないよォ」
 金蓮は、彼をはげしく突き飛ばすと、駅の入口の方へ走り出した。
 仏は、おどろいて、その後を追おうとした。すると駅員が、彼の腕を抑《おさ》えて留《と》めた。
「およしなさい。あの女は、頭が変なんです。誰にでも、ああするのです。構《かま》わない方がいいですよ」
「しかし仏天青というのは……」
「仏天青という名前は、私たちも、耳にたこの出来るほど聞いていますよ。あの女のいうところに従えば、その御亭主は、大使館|参事官《さんじかん》で、そして世界一の美男子《びだんし》だそうです」
「大使館参事官?」
「どうも、あてにはなりませんがね」
 駅員の話を聞いていると、あの女は、現在こそ変になっているが過去の事柄については、かなり正確な記憶を持っているように思われた。彼女のいう仏天青は、大使館参事官であって、彼よりも年配《ねんぱい》の者であり、そして美男子である――と、これだけのことが、ようやくはっきりしたのであった。
 すると、彼女のいう“仏天青”と、彼自身とは、一体どんな関係に置かれているのだろうか。
 発音が同じで、文字が違う同発音|異人《いじん》という者もないではないが、仏天青という文字以外に、常識的に使われる文字は、そうないのであった。この上のことは、彼女に会って聞くより仕方がない。が、金蓮は、いつまでたってもかえって来なかった。彼はぼんやり、ホームの長いベンチのうえに腰を下ろして、考えつづけていた。しかし結局、金蓮のいう“仏天青”と彼自身とは容貌に於いて別個《べっこ》の人間だと思われ、また彼自身も、いきなりホームで抱きつかれた金蓮に対する印象が淡《あわ》く、どうしようかと考えているうちに、そこへロンドン急行の別の列車がホームへ入ってきたので、彼は金蓮を待つことをやめて、その列車に乗り込んだのだった。
 列車は、間もなく動きだした。思いがけない情痴《じょうち》事件の駅を後にして……。


     11


 彼は、無切符であった。
 切符は、アンが持っているのだ。
 彼は、バーミンガム駅のホームで、喰べ物を買い込むために、アンから貰ったすこしばかりのお金を握っているだけだった。とても、これでロンドンまでの切符を買うことは出来なかった。
 彼は、すぐさま車掌に申告《しんこく》するとか、バーミンガムの駅で証明をとって置けばよかったのだ。だが、彼はそんなことに気がつかなかった。只《ただ》考えたのは、何とかして、検札《けんさつ》や旅客訊問《りょきゃくじんもん》の網《あみ》に引懸《ひっかか》るまいとして、こそこそ逃げ込むことばかりにこれ努《つと》めた。
 その結果は、甚《はなは》だよろしくなかった。彼は、とうとう無賃乗車《むちんじょうしゃ》の怪《あや》しい乗客として、車掌に捕《とら》えられた。それから憲兵の前へ引き出された。
 彼は、陳弁《ちんべん》に努めた。だが、彼等は、なかなか信用しなかった。彼は、思い出して、二冊の貯金帳を出して見せた。
「ほう」
 と、彼等は、目を丸くしたが、
「この貯金帳には、大金を預けていることになっているが、この列車の中では、通用しない。このごろは、敵国のスパイが、よくそういうものを偽造《ぎぞう》してもっているからだ。本当に君は、中国人であろうか。われ等《ら》は、君を日本人の密偵だと睨《にら》んでいるのだが……」
 仏天青《フォー・テンチン》は、その然《しか》らざる所以《ゆえん》を滔々《とうとう》と述《の》べた。そして、一列車前の十三号車に乗っている彼の妻君アンに連絡してくれれば、万事《ばんじ》明白《めいはく》になるからと、しきりにその事を申し述べたのであるが、車掌と憲兵とは、それを実行しようとも何とも言わずに、彼を三等車の隅っこに押しこんで、附近の乗客に、彼を監視しているように命じた。
 こうして、彼の不愉快な列車旅行が始まったのであった。
 幸いに、彼を監視の乗客たちは、この顔色の黄いろい中国人をむしろ気味わるくおもっていたので、ときどき彼を睨《にら》みつける位のことで、手を出して迫害《はくがい》せられるようなことはなかったので、この点は大いに助かった。
 彼は、不愉快のうちに、これまでの突拍子もない事件のあとを、静かにふりかえる時間を持った。
(一体、おれは、仏天青氏なのか、それとも他人なのか?)
 アンは、自分が仏天青であることに異存《いぞん》はなかった。ブルート監獄の看守も「ミスター・F」と呼んでくれた。アンと一緒に乗り込んだ前の列車の憲兵も、同じく彼を仏天青と認めてくれた。それに、彼は仏天青|名義《めいぎ》の二冊の貯金帳を持っているではないか。
 彼が“仏天青”ではないと言われたのは、バーミンガム駅にいた女だけだった。いや、それから、この列車の憲兵と車掌も、彼に対し幾分|疑惑《ぎわく》を持っているのだ。
 これらを差引きして考えると、彼が仏天青であることの方が、そうでないことよりも、有力であると考えられる。あの女に逢うまでは、このような疑惑は、殆《ほとん》ど起らなかったのだ。あのバーミンガムの女こそは、懐疑《かいぎ》の陰鬼《いんき》みたいなものであった。
(おれは、仏天青に違いないのだ!)
 そう思いながらも、彼は、あの女の残していった科白《せりふ》、
“こんな若僧《わかぞう》じゃない!”
 という言葉が、いつまでも無気味《ぶきみ》に思い出されるのであった。
 彼のもう一つの当惑《とうわく》は、妻君のことだった。バーミンガムの駅で、あの女に取《と》り縋《すが》られたときには、妻が二人出来たかと思って、すくなからず愕《おどろ》いたのだった。つまり、列車の中に待っている可愛いアンと、そしてこの塩漬《しおづ》けになったような中国女であった。
(女房を二人も持ってし
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