へ戻した。
「おい、アン」
「なあに、あなた」
「お願いだ、おれが、この頭部に負傷したときのことを、もっと詳《くわ》しく話してくれないか」
「ああ、そのことなの」アンは、仏の顔を見上げ、「いつでも、話をしてあげますわ。でも、今はよしましょう。あなた、昂奮《こうふん》していらっしゃるようね。すこしおやすみになったらどうです。あたしも、なんだか、列車にのって安心したせいか、急に睡《ねむ》くなって、ほらこのとおり眼がしょぼしょぼなのよ。ほほほほ」
なるほど、アンの眼は睡そうであった。仏は、見れば見るほど、子供のように可愛いところのあるアンを、これ以上、彼の我儘《わがまま》のため疲らせることは気がすすまなかったので、
「アンよ、おやすみ。そのうち、おれも睡くなるだろうよ」
そういって、仏は、アンの額に、軽く唇をつけた。アンは、早《は》やもう目をとじていた。
あと、十時間だ。
仏は、アンに睡られてしまって、俄に退屈になった。窓外《そうがい》を見ると、空は相変らず、どんよりと曇っている。畠には、小麦の芽が、ようやく三、四|吋《インチ》伸びている。ようやく春になったのである。
仏天青は、またアンの方を見た。アンは、本当に寝込んでしまったらしい。すうすうと、安らかな鼾《いびき》をかいている。そして、弾力《だんりょく》のある小さい唇の間から、白い歯が、ちらりと覗《のぞ》いていた。
仏は、立ち上ると、アンのオーバーの前をあわせ、そしてその襟《えり》を立ててやり、席に戻った。
色のぬけるように白い、鳶色《とびいろ》の髪をもった彼の妻!
(おれは中国人だが、アンは中国人じゃなくて、白人だ。白人にもいろいろある。伊国《イタリー》人だろうか、イギリス人だろうか。いや、イギリス人には、こんな美人はいない。躯の小さいところといい、相当肉づきのいいところといい、ひょっとしたらフランス人じゃないかなあ)
彼は、そんなことを考えながら、妻君《さいくん》の寝顔を、飽《あ》かず眺《なが》めていた。
8
列車の窓から、マンチェスター市の空を蔽《おお》う煤煙《ばいえん》が、そろそろ見えてきた。
アンは、まだ眠っている。
仏天青《フォー・テンチン》は、まだ眠る気になれなかった。そのとき彼は、ポケットの中に、新聞紙があったのを思い出した。それは彼が今着ている中国服を包んであったものだった。彼は、いそいで、それを出して展《ひろ》げた。
新聞は、ロンドン・タイムスだった。日附を見ると、八月十日とある。かなり古い日附の新聞だった。七八ヶ月も前の新聞だ。
わがイギリス軍と独伊枢軸側《どくいすうじくがわ》との戦闘は、フランス戦線をめぐって猛烈を極めているとの記事で充満していた。フランス遠征のわがイギリス軍は、ついに総引揚《そうひきあげ》を決行した。ドイツ機必死の猛爆にも拘《かかわ》らず実に巧妙に、そして整然と、わがイギリス兵は本国へ帰還したと、写真入りで報道してあった。
(なあんだ、イギリス軍は負けているじゃないか。そして、フランスは、ドイツ軍の靴の下に、踏み躙《にじ》られようとしているではないか。これは重大なる戦局だ――現在はどうなっているのだろうか)
他の記事によると、イギリス軍のフランス撤退《てったい》について、多数のフランス人が、汽船や飛行機にのって、イギリス本土へ避難《ひなん》して来たことをも報じていた。
“今やイギリス本土は国際避難所の如き感がある!”
などという記事も見える。
“必要ならば、フランス政府も、一時ロンドンに移転するかもしれない”
そういう記事もあった。また、
“ドイツ軍の長距離砲|敢《あ》えて恐《おそ》るるに足《た》らず、われまた、更に一歩進んだ新長距離砲をもって酬《むく》いん!”
という記事もあって、いよいよ近く英独は、ドーヴァ海峡《かいきょう》を距《へだ》てて対戦するであろうことを示唆《しさ》しているものもあった。
「そうすると、中国は、この欧州の戦局に対して、どういう役割をしているのかな」
仏天青は、そういう疑問にぶつかった。
そこで彼は、新聞紙をいくたびか畳《たたみ》かえして、そういう記事のある欄《らん》を探した。
“東洋”という欄が、ようやくにして、見つかった。わが中国は、安心なことに、まず、イギリス側に立っているようであった。イギリスからは、また新借款《しんしゃっかん》を許したそうであり、兵器弾薬は、更に活発に、中国へ向けて積み出されていることが分った。
「このようなイギリス側の援助をうけて、わが中国は、東洋で、ドイツ軍を迎えるのであろうか」
彼は、また奇妙な疑問にぶつかった。
だがむさぼるように、その先の記事を拾っていくと、終りの方に、彼を愕《おどろ》かせるに足る記事があった。
“首都|重慶《じゅうけい》は、昨夜、また日本空軍のため、猛爆をうけた。損害は重大である。火災は、まだ已《や》まない。これまでの日本空軍の爆撃により市街の三分の二は壊滅《かいめつ》し、完全なる焦土《しょうど》と化《か》した。しかも、蒋委員長は、あくまで重慶に踏み留《とど》まって抗戦する決意を披瀝《ひれき》した”
日本が中国を攻撃している! あの小さい日本が、大きな中国を攻撃しているのだ。なんというおかしなことであろう。一体、中国の空軍は、なにをしているのであろう。中国の空軍の活躍については、生憎《あいにく》ニュースがなかったのか、なにも記載《きさい》がなかった。
「日本軍は、敵ながら、なかなか天晴《あっぱれ》なものだ」
仏天青は、ひどく日本軍の勇敢さに、ひき入れられた。敵国が好きになるとは、困ったことであった。
彼は、新聞紙を、また折りかえして、次なる頁《ページ》に目をやった。
「おや、こんなところに、アンダーラインしてあるぞ」
今まで気がつかなかったが、下欄《げらん》の小さい活字のところが、数行に亙《わた》って、黒い鉛筆でアンダーラインしてあった。そこを読むと、こんなことが書いてあった。
“パリ発――日本大使館附フクシ大尉は、ダンケルク方面に於いて、行方不明となりたり。氏は英仏連合軍の中に在りて、自ら偵察機《ていさつき》を操縦して参戦中なりしが、ダンケルクの陥落《かんらく》二日前、フランス軍の負傷者等を搭載《とうさい》しパリに向け離陸後|消息《しょうそく》を絶ちしものなり。勇敢なる大尉及び同乗者等の安否《あんぴ》は、極めて憂慮《ゆうりょ》さる”
それを読んだ仏《フォー》は、舌を捲いた。
「ふーん、日本軍人は、ここでも勇敢なことをやっている。勇敢なる中国軍人のニュースは、一体どこに出ているのだろうか」
生憎《あいにく》と、その日は、中国軍人が活躍しなかったものと見え、他をしらべても、中国軍人の勇敢さについては一行半句《いちぎょうはんく》も出て居らず、ただ、列強の対中援助のことだけが、くどくどと書いてあるばかりだった。
9
「あら、あなた、なにを読んでいらっしゃるの」
眠っているとばかり思っていたアンが、いきなりむくむくと起き上って、仏《フォー》の持っていた新聞をひったくった。
アンは、なぜか、険《けわ》しい目をして、新聞の面を大急ぎで見ていたが、
「あら、これ、ずいぶん古い新聞なのね」
と、溜息《ためいき》と共にいった。
「こんな古新聞紙を、どこでお拾いになったんですの」
「おれのポケットに入っていたんだ。その前には、この中国服を包んであった。ブルートの監獄を出るとき、看守が渡してくれた」
「え、ブルートの監獄ですって」
アンは、なにを思いだしたか、恐《おそろ》しそうに、体をすくめた。
「アン。これごらんよ。こんな記事に、鉛筆でアンダーラインがしてあるんだが、誰が、これを引いたんだろうね」
そういって、仏天青《フォー・テンチン》は、例の日本将校フクシ大尉の失踪《しっそう》に関するパリ電信の記事を見せた。
アンは、その記事を読んで、仏の顔を見たが、首を左右に振った。
「誰がつけたのか、あたしは知らないわ。看守さんが引いたのじゃないかしら」
彼も、それを聞いて、首を振った。
「アン。この記事を見て、なにか感想はないかね」
「感想? べつにないわ」
と、アンは、突放《つっぱな》すように言って、
「あなたの方に感想がありそうね」
「この記事の日本将校はフクシ大尉だろう。それから、リバプールで、君の目の前で、桟橋《さんばし》から海へ飛び込んだ男は、フン大尉というんだろう。フクシ大尉にフン大尉、どこか、似ているじゃないか」
仏天青は、前に自分の心に誓ったことなどはもう忘れて、アンの顔色を、鋭い眼で見つめた。
アンは、ちょっと周章《あわ》てているようであった。
「あれはフン大尉という人なんですか。知らなかったわ。フン大尉とフクシ大尉、名前の頭と、そして大尉とは似ているけれど、全く別人じゃない? 第一、フクシ大尉は日本将校だし、フン大尉というのは、白人なんでしょう」
「フクシ大尉は日本人で、フン大尉は白人か。なるほど、そいつは大きな違いだ」
そんなことを言っているときに、列車は、ストークの駅についた。
アンは、お腹がすいたから、サンドウィッチがたべたいといった。それからレモン水《すい》も欲しいし、序《ついで》にチョコレートと南京豆《なんきんまめ》とを買ってちょうだいなと、彼に金を渡した。
仏は、その金を握って、プラットホームに下りた。そしてアンにいわれた品物を、買い集めているうちに、列車は、ぽーっと鳴って動きだした。彼はもちっとで、ホームに置《お》き去《ざ》りにされるところだったが、いそいで駈けつけたので、やっと最後の車に飛び乗ることが出来た。
仏は、そのたくさんの買物を抱《かか》えて、十三号車まで辿《たど》りつくのに、人や荷物を分けていくため、たいへん骨が折れた。
やっと十三号車に辿りついて、アンの待っているコンパートメントに入ろうとしたとき、内側で、ひそひそと話声がしているので、彼は、はっと思って、足を停めた。
廊下に立って、そっと耳を澄《す》ましてみると話しているのは、アンと、そしてもう一人は男の声だった。言葉は、フランス語だった。男の声は、いやに疳高《かんだか》い。アンが、もうすこし低く喋《しゃべ》ってはと注意したが、その男の声は地声《じごえ》とみえて一向《いっこう》低くならなかった。
「……桟橋から飛びこんだときは、後悔したよ。なぜって、海の水は、冷え切っているのだからねえ」
「もっと小さい声で……」
「とにかく、そんなわけで、もぐれるだけもぐっていたが、モーターボートの追跡陣《ついせきじん》は、厳重《げんじゅう》だ。もう駄目かと思ったときに、空襲警報が鳴った。これが、天の助けだ。そうでなければ、ボジャック氏は、今ごろは縄目《なわめ》の恥《はじ》をうけていたわけだ」
「よかったのねえ」
「だが、どうにも腑《ふ》に落ちないのは、あのものものしい騒ぎの一件だよ。われわれフランスからの避難民を、イギリスの奴等は、いやに犯罪人あつかいするじゃないか。フランスは、あんなにイギリスのために、ドイツの奴等を喰《く》い止《と》め、血を流してまでも働いてやったのに」
「仕方がないよ。いまに、誤解がとけるだろうよ」
「しかし当分は、小さくなって隠れていなくてはね」
仏天青は、廊下に立ってこの会話を盗み聴きしていたが、それ以上、聞くにたえなかった。ボジャック氏とかいう男は、リバプールの港へ飛び込んだ人物であり、そしてアンの連《つ》れであった。すると、アンの亭主ではないか。アンを自分の妻君だと信じていた仏天青は、全身、血が一時に逆流《ぎゃくりゅう》を始めたような気がした。
(このまま、列車から飛び下りてしまおうか?)
と、仏天青は、思った。
だが、彼は、遂《つい》に、そうはしなかった。そして、コンパートメントへ入っていったのであった。
彼は、初めて声の主ボジャック氏の姿に接した。長身の、目の落ちこんだ、鼻の高い男であった。言葉つきから想像したよりも、若くて
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