英本土上陸作戦の前夜
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)英蘭《イングランド》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)中国人|仏天青《フォー・テンチン》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)わし[#「わし」に傍点]
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1
英蘭《イングランド》西岸の名港《めいこう》リバプールの北郊《ほっこう》に、ブルートという町がある。
このブルートには、監獄《かんごく》があった。
或朝、この監獄の表門が、ぎしぎしと左右に開かれ、中から頭に包帯《ほうたい》した一人の東洋人らしい男が送り出された。
彼に随《つ》いて、この門まで足を運んだ背の高い看守《かんしゅ》が、釈放囚《しゃくほうしゅう》の肩をぽんと叩き、
「じゃあミスター・F。気をつけていくがいい。娑婆《しゃば》じゃ、いくら空襲警報が鳴ろうと、これまでのように、君を地下防空室《ちかぼうくうしつ》へ連れこんでくれるわし[#「わし」に傍点]のような世話役はついていないのだからよく考えて、自分の躯《からだ》をまもることだ」
「……」
「おう、それから、君の元首《げんしゅ》蒋将軍《しょうしょうぐん》に逢ったら、わし[#「わし」に傍点]がよろしくいったと伝えてくれ。じゃあ、気をつけていくがいい」
「……」
ミスター・Fと呼ばれたその釈放囚は、新聞紙にくるんだ小さい包を小脇にかかえて、無言のままで、門を出ていった。
それからは、やけに速足《はやあし》になって、監獄通りの舗道《ほどう》を、百ヤードほども、息せききって歩いていったが、そこで、なんと思ったか、急に足を停《と》め、くるりと後をふりかえった。
彼の、どんよりした眼は、今しも出てきた厳《いかめ》しい監獄の大鉄門のうえに、しばし釘《くぎ》づけになった。
そのうちに、彼の表情に、困惑《こんわく》の色が浮んできた。小首《こくび》をかしげると、呻《うめ》くようなこえで、
「……わからない。何のことやら、全然わけがわからない」
と、英語でいった。
溜息《ためいき》とともに、彼は、監獄の門に尻をむけて、舗道のうえを、また歩きだした。もう別に、速駆《はやが》けをする気も起らなくなったらしく、その足どりは、むしろ重かった。
「……わからない」
彼は、つぶやきながら、歩いていった。どういうわけか、約一週間前から過去の記憶が、全然ないのであった。なんのため、監獄に入れられていたのか、そしてまた、自分がどういう経歴の人物やら、さっぱり分らないのであった。全く、気持がわるいといったらない。
警笛《けいてき》が、後の方で、しきりに鳴っていた。彼の思考をさまたげるのが憎《にく》くてならないその警笛だった。
なにか、やかましく怒号《どごう》をしている。そして警笛は、気が違ったように吠《ほ》えている。
彼は、うしろを振り向いた。
と、大きな函《はこ》のトラックが、隊列をなして、彼のうしろに迫っていた。
彼は、轢殺《ひきころ》される危険を感じて、よろめきながら、舗道の端《はし》によった。
とたんに一陣の突風《とっぷう》と共に、先頭のトラックが、側を駆けぬけた。
「危い!」
彼は畦《あぜ》をとびこえて、舗道《ほどう》から逃げた。
濛々《もうもう》たる砂塵《さじん》をあげて、トラック隊は、ひきもきらず、呆然《ぼうぜん》たる彼の前を通りぬけていった。
“気球《ききゅう》第百六十九部隊”
と、そういう文字が、トラックの函のうしろに記されてあった。それは、リバプール港へいそぐ阻塞気球隊《そさいききゅうたい》だったが、彼は、そんなことを知る由《よし》もなかった。
山火事のように渦《うず》をまく砂塵《さじん》の中に、ただひとり取り残されていた彼だった。
砂塵は、いつまでたっても、治《おさ》まる模様がないので、彼は再び舗道へのぼり、気球隊の通りすぎた後を、ぼつぼつと歩きだした。
「イギリスは、いまドイツと闘っていると看守がいったが、このことだな。危険、危険」
それから半マイルばかり歩いた。
彼は、とうとう疲れてしまって、道傍《みちばた》に腰を下ろした。リバプールの市街の塔や高層建築が、もう目の前にあった。空には、夢のように、阻塞気球が、ぷかりぷかりと浮んでいた。
「ああ、綺麗だなあ」
と、彼は見当ちがいの賛辞《さんじ》をのべた。
道ゆく人が、探るような目で、彼の顔を覗《のぞ》きこんでいった。
(ミスター・F――と、あの看守は呼んでいたな。すると、おれ[#「おれ」に傍点]は、ミスター・Fという人間か。そして、お前の元首蒋将軍へよろしく――といったが、蒋といえば、中国人の名前じゃないか)
現在のことは、考え出せる力があった。しかし一週間前のこととなると、全く思い出せないふしぎさ。彼は、自分自身が、一体何者であるかを知ろうとして、焦《あせ》った。
「おれは、中国人かな。どうも、おかしい」
そのとき、彼は、ふと自分の足許に転《ころ》がっている紙包に気がついた。それは、監嶽を出るとき、看守から渡されたものであった。
どうやら、これは、自分の所持品らしいが、一体中には、何が入っているのであろうか。その中にこそ、彼の素姓《すじょう》を語る貴重な資料があるのに違いない。彼は一大発見をしたように思い、声をあげて、大急ぎでその新聞紙包の紐《ひも》を解いてみた。
中から、出て来たものは、一体何であったろうか?
2
一着の、長い中国服だ!
中から出てきたものは、裾も手も長い、まっ黒な地色の中国服であった。そのほかになにもない。
「中国服か、やっぱり……」
彼は、首を左右にふりながら、服の裏をかえしてみた。すると、そこに白い糸で、仏天青《フォー・テンチン》と、漢字が縫つけてあった。
「仏天青? はてな、これが、おれの名前かな」
仏天青といえば、中国人の名前のようである。するとやっぱり、自分は、中国人なのであろうか。
看守が君の元首蒋将軍によろしくといったことが思いあわされる。
「中国人だったのか、おれは……」
仏天青――と今後彼をそう呼ぼう――は、まだぴったりしないような顔付で、ひとりごとをいった。
それから仏《フォー》は、ふと、今自分が着ている服に目をうつした。それは中国服ではなく、タキシードであった。しかしひどく汚れていた。上も下も胸も、泥まみれになっていたうえ、肘《ひじ》のところは破れ、ズボンにも、かぎ裂《ざ》きのような箇所があり、見れば見る程、見られたざまではなかった。
「ふーん、これはどうしたんだ」
どこで、こんなに土まみれとなり、かぎ裂きをこしらえたのであろうか。彼は、急に恥《は》ずかしさがこみあげて来た。そこで、彼は下に落ちていた中国服をとりあげると、埃《ほこり》をはらって、タキシードの上から着た。そして、あわてて襟《えり》を合わせた。
彼は、それからまた歩きだしたが、何思ったか、また引返した。そして舗道《ほどう》のうえを風にあおられて匐《は》っていく、包紙の新聞紙を、靴の先で踏まえた。彼は、その新聞紙をとりあげて見ていたが、そのまま畳《たた》んで、タキシードのポケットにねじこんだ。
ところが、そのとき彼は、また大発見をしたのだ。タキシードのポケットに手を入れてみると、何か硬い表紙をもった帳面のようなものが手に触《ふ》れたのである。なんだろうと、引張《ひっぱ》り出してみて愕《おどろ》いた。それは、銀行の預金帳であった。二冊もあった。
彼は、ますます愕いて、二つの預金帳の頁《ページ》を開いて、しらべた。一冊は英蘭《イングランド》銀行のもので在高《ざいだか》は五万ポンド、もう一冊はフランスのパリ銀行のもので七百十七万フランばかりの在高が記入してあった。そして、どっちの帳面にも、この預金主の名として「ミスター・F」とのみ記《しる》されてあった。
これは、ミスター・Fの財産だ。相当の金だ。
彼は、ほっと安心していいのか、それとも他人の金を握ったことを気味わるく感じるべきかについて迷った。
だが、結局、ミスター・Fというのは、中国人|仏天青《フォー・テンチン》の略称《りゃくしょう》であろうと気がついたので、ようやく心は一時|落着《おちつ》いた。
「この分なら、ポケットから、もっといろいろなものが飛び出して来やしないかなあ」
そう思った彼は、また中国服の前を開き、タキシードのポケットというポケットを探した。
ズボンの右のポケットに、ロールしたパンがぺちゃんこになって入っていた。口のところへ持っていくと、ぷーんと黴《かび》くさい臭《にお》いがしたので、舗道《ほどう》のうえへ叩きつけた。そのほかには、油に汚れたよれよれのハンカチーフが出てきただけであった。手帳もなければ、紙幣入《かみい》れもない。銀貨銅貨一つさえ見当らなかった。
「タキシード一着、中国服一着、預金帳二冊、ハンカチーフにパン――これだけが仏天青氏の素姓《すじょう》を語る材料なんだ。ふふん」
不安の中に戦《おのの》いていた彼は、そこで思いがけないパズルの題を渡されたような気がして、なんだか楽しくなってきた。そして、また舗道のうえを、リバプールに向けて歩きだしたが、彼の足どりは、以前にも増して、元気をつけ加えたようであった。
空は、どんより曇っていた。しかし、風が相当吹いていたから、やがて晴天《せいてん》になるであろう。
(さて、これから自分は、いかにして、わが家に戻るべきであろうか)
阻塞気球《そさいききゅう》は風に揺《ゆ》れていた。
(おれは旅人《たびびと》らしい。わが家は、きっと、遠い広東《カントン》省かどこかにあるのであろう)
中国と思えば、ふと「広東省」という地名が、頭脳の中から飛び出してきた。だが、それ以上に発展しなかった。
(この土地は、たしかにイギリスにちがいないが、自分は何用《なによう》あってこんなところへ来たのであろう)
赤十字のマークをつけた病院の自動車が三台、町の方からやってきて、彼の傍を通り過ぎていった。
(おれは一体、幾歳《いくさい》ぐらいの男なんだろう)
彼は、ふと立《た》ち停《どま》って、あたりを見まわした。目についたのは、畦道《あぜみち》の傍《そば》を流れる小川だった。
彼は、そこまで歩いていって、恐《おそ》る恐る、しずかな流れに顔をうつした。
「や、おれは、頭に怪我《けが》をしていたんだ。そうそう二三日前に気がついたんだが。何の怪我かしらん。おう、あ痛《いた》ッ」
彼は、痛々しい自分の頭の包帯《ほうたい》にびっくりしてしまって、とうとう自分の顔から自分の若さを読みとる余裕《よゆう》がなかった。
そのところへ、サイレンが、けたたましく鳴り出した。
「あ、空襲警報《くうしゅうけいほう》だ!」
彼は、畦道をすっとんで、舗道の上へおどりあがった。きょろきょろ四周《あたり》を見まわしたが、防空壕《ぼうくうごう》らしいものはなかった。
「どうしよう?」
彼は途方《とほう》に暮れて、なおもうろうろしていた。するとそこへ走ってきた一台のトラックが、傍《わき》へぴたりと停った。
「早く乗れ」
トラックの上から、手が出ると、やっという懸《か》けごえと共に、彼は車上《しゃじょう》に引き揚げられた。
3
トラックの上には、いろいろな種類の人間が乗っていた。いずれも皆、そのあたりを歩いていた町の人々らしかった。
トラックは、それから暫《しばら》く走ったが、やがて「防空壕アリ」と建札《たてふだ》のあるビルディングのところまで来ると、ぴたりと停った。
「さあ、防空壕へはいった。しずかに、そして早く……」
指導員らしいのが叫んだ。
仏天青《フォー・テンチン》も、人々のうしろから、柵の中にはいった。狭い下《くだ》り坂《ざか》を、ついていくと、やがて、電灯のついただだっ広《ぴろ》い部屋が見えた。ぷーんと饐《す》えくさい空気が、彼の鼻をうった。
彼の頭は、急に、ずきんずきんと痛みだした。よほど
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