廻れ右をしようかと思ったが、あとからまた押してくる人で、それは不可能だった。
婦人の金切声《かなきりごえ》と、子供の泣き叫ぶ声とで、壕の中は、さらに息ぐるしかった。天井は、角材を格子《こうし》に組んであったが、非常に低かった。換気《かんき》もよろしくない。監獄の防空室にくらべると、たいへん劣《おと》る。
「おい、立ち停《どま》らんで、もっと奥へはいってくれ」
「そう押しても、駄目だよ。前には、子供がいるんだ」
「おい、煙草の火を消せ。消さないと、つまみ出すぞ」
人気《にんき》は荒かった。彼は押されているうちに斜面《しゃめん》を滑《すべ》って、避難の市民の頭のうえに墜《お》ちそうになった。
すると、下から、彼の服を引張った者がある。
「おい、乱暴するな。墜ちるじゃないか」
彼は、眩《まぶ》しい電灯の下にあったので、顔をしかめて、下を見た。
「あなたァ、ここよ。早く早く」
「え」
見ると、見も知らぬ若い白人の女が、しきりに、彼の中国服の裾《すそ》を引張《ひっぱ》っているのであった。
「誰です、君は。人違《ひとちが》いでしょう」
彼は、そう叫びかえしたが、その女には、すこしも聞こえないらしい。
「あなたァ、そっちへいっちゃ駄目よ。いいから、そこを滑《すべ》り下《お》りて……」
そのときには、彼の躯《からだ》は、早くも斜面の端《はし》からはみ出し、ずるずると下に落ちていった。
「あなたァ、どうなさったかと思っていたわ。まあ、よかった。おお神さま」
見ると女は、口先だけで、神の名を称《とな》え、そしてその眼は、仏天青の眼に、じっと注《そそ》がれていた。
「君は……」
といおうとすると、
「あなたァ……」
といって、いきなり女の両の腕が、仏《フォー》の首《くび》にまきついた。後は、何もいうことが出来なかった。彼の口は、女の唇で、ぴたりと蓋をされてしまったのである。彼は、気が遠くなる想《おも》いで、躯の自由をうしなってしまった。
ただそのとき覚えているのは、やや、しばらくして、女が、はげしい息づかいとともに、彼の耳に、いくども囁《ささや》いた言葉だった。
「……なんにも言わないで……なんにも考えないで……そしてもうあたしを捨てていかないでよゥ」
彼は、名状《めいじょう》すべからざる困惑《こんわく》を感じた。しかし遂《つい》に、彼は女の躯から手を放そうとはしなかった。自分の胸の中で、鳴咽《おえつ》するその女が、ただもういじらしくて仕方がなかったし、それに、
(うむ、ひょっとすると、この女は、自分の女房《にょうぼう》であるかもしれない)
と思ったのである。
彼は、女の髪をやさしく撫《な》でてやった。
女は、また更に大きな声をあげて、彼の胸の上で泣きだした。
(……おれは、女房にめぐり合ったんだ。どうも、それに違いない。女房のやつ、おれがもう監獄から出てくるかと思って、今日もこのへんをうろうろしていたんだ。そこへ空襲警報が鳴り響き、この防空壕へとびこんだ。そして神の名を呼んでいると、その前へ、いきなりおれの顔が電灯の光の中に現れた。そこで必死になって、おれの服をもって引き下ろしたのだ。どうも、そうらしい。いや、それに違いない)
彼は、女の髪の上に、そっと唇を押しつけた。
(……おれの女房は、空襲が終ったら、おれを自分の家へ連れていってくれるだろう。そして、おれが知りたいと願っていたおれの過去について、すっかり説明をしてくれるだろう)
彼は、女の背に、手をまわした。
「おう、可愛い私の……」
彼は、その先の言葉につまった。
「私のアン……」
女が、そういった。
「そうだ。可愛い可愛い私のアン。私はもう、どこへもいきはしないよ」
彼は、そういうと、唇をかんだ。頬を、止《と》め度《ど》もなく、熱い涙がほろほろと、滾《こぼ》れ落ちた。
4
仏天青《フォー・テンチン》は、アンと抱きあっていた。
それから暫《しばら》くして、彼は、アンの腰のあたりに、変に硬いものが当るので、ふしぎに思って、そこを見た。
「おや、アン。これはどうしたのかね」
彼は、アンの腰に、丈夫《じょうぶ》な綱《ロープ》がふた巻もしてあるのを発見した。しかもその綱の先は、防空壕の肋《ろく》材の一本に、堅く結んであった。まるで囚人《しゅうじん》をつないであるような有様であった。
「いいのよ、あなた」
「よかないよ。説明をおし。これじゃ、まるで……おや、手も、そうじゃないか」
アンの手首は、いつの間にか綱《ロープ》でしばられていた。
「大丈夫。手首はぬけるのよ」
といって、アンは、綱のくくり目から、手首をぬいてみせた。しかし腰の紐《ひも》までは、ぬいてみせなかった。もちろん、それは抜けないように二重に縛ってあった。
「アン。なにもかもお話し。一体……」
「しっ」
そのとき、仏天青のうしろから、どら声を張りあげたものがあった。
「こら、女。逃げると承知しないぞ」
仏は、むっとして、うしろを振り向いた。胸に徽章《きしょう》を輝かした私服警官が立っていた。
アンは、綱でしばられたまま手首をつと動かして、仏の服をおさえた。
「あなた、黙ってて……」
アンは、彼に注意を与えると、私服警官の方へ仰向《あおむ》き、
「あたしの夫が、帰って来てくれました。このとおり、あたしを抱いていてくれます。人違《ひとちが》いだとお分りでしょう。このいましめの綱を、解いてくださいませ」
「なんじゃ。お前の亭主が帰って来たと。なるほど、中国人らしい面じゃ……だが、本当かどうか信用できるものか」
「そんなことは、ありません。ねえ、あなた。この警官は、なにか大へん勘ちがいをしていらっしゃるのですよ。結婚のとき取交《とりか》わしたあたしの名前を彫《ほ》った指環《ゆびわ》を見せてあげてください……」
「指環? 指環どころか一切の所持品は……」
盗られてしまったと、仏《フォー》はいいかけたのを、アンは素早く引取って、話題を転じた。
「けさのことよ。リバプールの桟橋《さんばし》から、海へ飛びこんだ男があったのよ。そのとき、たいへんな騒ぎが起ったんですけれど、この警官たち、あたしが、その自殺男の妻君《さいくん》にちがいないとおきめになって、とうとうこんな目に……」
「自殺男じゃない」と、私服警官は、アンを怒鳴《どな》りつけたが「まあ、もう少し温和《おとな》しくして待っていろ、空襲が終り次第、どっちが、お前の本当の亭主だか、よく調べてやる」
仏は、黙りこくって、唇を噛んだ。
そのとき、とつぜん、飛行機の爆音を耳にした。
「ひえーッ、敵機が……」
「ああ神よ、われらを護《まも》り給《たま》わんことを」
防空壕の人々の中からは、一せいに悲鳴《ひめい》と祈りとが起った。と、あまり遠くないところで、轟然《ごうぜん》たる爆発音が聞え、大地はびしびしと鳴った。
「墜《お》ちた、近いぞ」
わァと喚《わめ》いて、逃げ腰になる。それを、叱りつける者がある。
仏とアンとの傍に立っていた私服警官は、二人を睨《にら》みつけておいて、そのまま身を翻《ひるがえ》すと、防空壕の入口の方へ駈け上っていった。
また、爆音が聞えた。今度は、よほど近い。ばらばらと、天井から砂が落ちて来た。大地は、地震のように鳴動《めいどう》した。
「マスクは、出してお置きなさい。マスクのない人は、奥へいってください」
あっちでもこっちでも、お祈りの声だ。
「今度は、あぶない」
「おい、もっと奥へいこう」
揉《も》みあっている一団があった。
「騒いじゃ、駄目だ、敵機の音が聞えやしない」
「あたしゃ、昨日の空爆で、両親と夫を、失ったんだ。こんどは、あたしの番だよ。自分がこれから殺されるというのに、黙っていられるかい」
「まだ子供がいるだろう。年をとった別嬪《べっぴん》さん」
「なにをいうんだね。子供なんか、初めから一人もないよ」
「そうかい。だからイギリスは、兵隊が少くて、戦争に負けるんだ」
「なにィ……」
そのときだった。
天地もひっくりかえるような大音響《だいおんきょう》が起った。入口の方からは、目もくらむような閃光《せんこう》が、ぱぱぱぱッと連続して光った。防空壕は、船のように揺れた。そして異様《いよう》な香りのある煙が、侵入してきた。がらがらと壁が崩れる音、電灯は、今にも消えそうに点滅《てんめつ》した。避難の市民たちは一どきに立ち上って、喚いた。
「逃げろ。爆弾が、こんどはこの防空壕をこわすぞ」
「貴様、うちの子供の上に……」
「あ、毒瓦斯《どくガス》。マスクだ、マスクだ」
「国歌を歌おう」
「毒瓦斯だ。そう来るだろうと思ったんだ、ナチ奴《め》!」
だが、それは毒瓦斯ではなく、単に硝煙《しょうえん》であった。破甲爆弾《はこうばくだん》が、この防空壕の、すぐ傍《わき》に墜ちたのだった。
入口から、ばらばらと数人の者が駆けこんで来た。何か長いものを持ちこんで来たと思ったら、それは負傷者だった。
「胸だ、胸だ。シャツを裂《さ》け」
「こっちへ寄せろ。電灯《あかり》の方へ……」
胸を真赤に染めた男の顔が、電灯の光に、ぱっと照らし出された。その男は、紙のように、真白な顔色をしていて、目が引きつっていた。よく見ると、それは、さっき、アンを咎《とが》めた私服警官であった。
「あなた、逃げましょう」
「えっ」
「綱を切ってよ。ナイフは、ここにあるわ」
「よし、こっちへ貸せ」
どこから出したものか、アンの手にはジャック・ナイフがあった。仏天青は、刃を出すと、ぷすっと綱を切《き》った。
「ああ、助かった。さあ、逃げるのです」
「アン、どこへいく。あ、今、外へいっちゃ、危い。入口でやられた人があるじゃないか」
「いいのよ。こうなれば、どこにいても同じことよ。さあ一緒に逃げてよ」
アンは、ぐいぐいと仏天青の手を引張った。
「危い。もうすこしの間、待て」
「いいえ、待てないわ。じゃ、あたしひとりでいきますわ」
アンは、入口の方へ上っていった。
「おい、アン、待て。おれも出る」
仏は、そういうと、中国服の裾《すそ》を摘《つま》んで、アンの後を追った。
5
防空壕を飛び出してみると、外は、今爆撃の真最中だった。
頭上には、ドイツ機が、縦横《じゅうおう》に飛んでいた。爆弾は、ひっきりなしに落ちて、黒い煙の柱をたてた。大地は、しきりに震《ふる》う。
「おーい、アン」
仏《フォー》は、精一杯の声をあげて、アンを呼んだ。
「あたし、ここよ」
うしろで声がした。見ると、アンは、そこに跼《かが》んで、腰の周《まわ》りについていた綱を、解いているところだった。
「呑気《のんき》だね、今、そんなことをして……」
「もう解《と》けたの。大丈夫ですわ。さあ、あなた、この車にしましょう」
「えっ」
アンは、防空壕の入口に乗り捨てられてあった自動車の一台に駆けよると、運転台の扉《ドア》をあけて、とびこんだ。
「早く、さあ、あなた」
仏は、アンの心を解しかねたが、ぐずぐずしているわけにもいかず、つづいて、運転台にとびのった。
「あら、あなたと反対だったわね」
アンは、ハンドルのことをいっているらしかった。
「よし、こっちへ替《かわ》れ。おれが、運転する」
「そんな暇はないわ。あたしが動かします」
そういうと、アンは、ためらうことなく、エンジンを掛けた。そしてアクセルを踏んで、車を出した。
それからのちの、アンの働きぶりは、驚嘆《きょうたん》に値《あたい》するものがあった。
彼女は、その子供らしい顔に似合わず、非常に巧みに操縦をした。そして爆撃に震う舗道《ほどう》のうえを全速力でもって、リバプールの町の方へ飛ばしていった。
いつ、爆弾が、上から降ってくるかしれなかった。アンは、それでも、平気なものであった。彼女の目は、いつも前方を見つめていた。
一度は、丁度《ちょうど》さしかかった町辻《まちつじ》の郵便局へ、爆弾が落ちた。
「あ――」
と、アンは叫んだが、そのまま速力をゆるめな
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