いで驀進《ばくしん》した。その辻のところでは、半壊《はんかい》の建物から、また、ばらばらと石塊《せきかい》がふってきた。アンは、ハンドルの上に首を縮《ちぢ》めながらも、急カーブを切って崩れて落ちた石塊の充満する辻を、右へ折れた。車は、ゴム毬《まり》のように、はずんだ。
「アン、どこへいくのか」
と、仏は、ほれぼれと、ハンドルをとるアンを眺めた。
「どこって、あなた、リベッツの宿に荷物が置いてあるじゃありませんか」
「荷物が……」
「ああ、失礼。あたし、あなたにお話ししてなかったけれど、宿をかえたのよ。だって、いつお出になるかわからなかったんですものねえ」
「え、出るって……」
仏は、ふしぎそうな顔をした。
彼は、アンに初めて逢ったときには、アンを、まことの自分の妻だと思った。ところが私服の警官が現われて、アンが、リバプールの桟橋から飛び込んで死んだ男の妻君であって、何かの事情のため、自分に助けを求めたものじゃないかと思った。だが、これは断言《だんげん》するだけの証拠が集っていなかった。アンが、防空壕を出ていくといったとき、彼はいよいよこの女の亭主の代役が終ったのかと思って、憂鬱《ゆううつ》になった。が、アンがいよいよ空爆下の防空壕の外へ飛び出していくと、もうじっとしていられなくなって、アンの後を追いかけたわけだった。
そのうちにも、彼は、
(こうして、もうしばらくアンの傍《そば》にいれば、本当に自分が彼女の亭主であるか、それとも防空壕の中で、臨時に捉《とら》えられた偽装《ぎそう》亭主であるかが判明するだろう)
と、思っていたのであった。
しかるに今、アンは、彼が、さきほど監獄から出たことを承知しているような口ぶりであった。
「そうなのよ。けさ、急に、あなたが、ブルートの監獄をお出になるって、知らせがあったもんだから、早く宿を出たんですの。そして海岸通りを桟橋の傍まで歩いて、そこで自動車を待っていると、あの身投げ騒ぎがあったのよ。そして、あたしは附近にいたというだけのへんな理由で、私服警官のため、その身投げ男の妻と見られて、捕縛《ほばく》されちまったの。そして、ブルートの未決監房《みけつかんぼう》へひいていかれるうちに、あの空襲警報に出遭《であ》ったのですわ」
アンは、息をはずませながら、早口にそういった。
「ああ、そうだったか。おれはこの頃、神経衰弱になったのか、妙に、なにもかも、忘れてしまうんでね」
仏は弁解らしくいった。そして胸の中はうれしさで一杯になった。
(アンは、やっぱり、おれの妻だった。おれは幸運にも、自分の家庭へ戻ることが出来たのだ)
しかし彼は、アンを心配させないために、過去の記憶のなくなったことを、なるべく急には言うまいと思った。そのうちに、何かの拍子《ひょうし》で、恰《あたか》も緞帳《どんちょう》が切って落されたように、一ぺんに自分の過去が思い出されるかもしれないと、そこにはかない望みを残したのであった。
6
リベッツの宿というのは、海岸にあった。
アンが、自動車を、リベッツの宿につけたとき、空襲警報は、はじめて解除となった。アンは、仏《フォー》の手をとらんばかりにして、宿の中へ誘った。下宿の老婦人は、アンを見ると、驚愕《きょうがく》に近い表情になって、彼女のところへ飛んできたが、傍に仏が立っているのに気がつくと、俄《にわか》に平静《へいせい》に戻ろうと努力し、
「おや、まあ、これは……」
と、どっちつかずの挨拶《あいさつ》をすれば、アンはそれを途中から引取って、
「おばさま。これ、この通り、夫にうまく行き逢いましたのよ。警官に行手《ゆくて》を拒《はば》まれた時は、どうなるかと思いました。幸いにその途中で夫に逢えたもんですから、こんな幸運て、ちょっとありませんわ」
「まあ、それはそれは、御運のよかったことで……で、すぐロンドンへいらっしゃるでしょう。ねえ、アン」
「え、ええ、そうしましょう。荷物をとりに来たのも、そのためよ」
「午前九時十五分発の列車がいいですわよ」
「そうですか、午前九時十五分発ですね」
「気をつけていらっしゃい。こういうとき、あたしなら十三号車に乗りますわ。こういう時節《じせつ》のわるいときには、わるい番号の車に乗ると反《かえ》って魔よけになるのよ」
「十三号車? ええ、ぜひそうしましょう」
仏は、二人の会話を傍《そば》で聞いていたが、アンが、この下宿のかみさんドロレス夫人を、母親のように信頼しているのを知った。アンは、ドロレス夫人のいうとおり、なんでも従うつもりに見えた。車室まで、かみさんのいったとおりにするなんて、いやらしいほどの信頼ぶりだと、彼は思ったことだった。
二人は、荷物をとるために、奥へ入っていった。仏だけは、そこに置かれた一ぱいの熱いコーヒーを味わっていてくれるよう、ということだった。
二人の女は、なかなか出て来なかった。一体、奥で、なにをしているのであろうかと、仏が立ち上ったとき、やっと声がして、二人の女は出て来た。
「あなた、これよ。このバッグを二つ、持ってくださらない。あたしは、この小さいのを二つ持ちますわ」
仏は、そこへ並べられたバッグを見たが、一向|見覚《みおぼ》えがないものだった。記憶の消滅の情《なさ》けなさ。
二人は、下宿を出た。
駅の方へ歩きながら、仏が、ふと思い出したようにいった。
「ねえ、アン。おれは懐中《かいちゅう》無一文なんだがねえ、リバプールの英蘭《イングランド》銀行支店で、預金帳から金を引出していく暇はないだろうか」
「否《ノウ》。そんなことをしていれば、列車に乗り遅れてしまいます」
「じゃあ、一列車遅らせてはどうだ」
「それは駄目。あの列車に、ぜひとも乗らなくては。だって、いつまたドイツ機の空襲で、列車が停ってしまうか分らないんですもの」
そういったアンの顔は、仏が始めて見る真剣な顔付であった。空襲を要慎《ようじん》してということだったけれど、それにしても、それほど深刻な顔をしなくてもいいだろうにと、仏は思ったことである。
ロンドン行の切符をアンが買った。そのとき切符売場で駅員とアンの間になにかごたごた押問答の場面があったが、アンが旅券みたいなものを示し、そして仏天青《フォー・テンチン》を呼びつけて、彼の顔を駅員に見せることによって、二枚の切符は、ようやく窓から差し出されたのであった。
「いやに、うるさいのですね」
と、仏が、鉄格子《てつごうし》の中を覗きこみながら、いうと、
「おう、若い中国の方。今朝から、特別の警戒なんですよ。桟橋附近で、夫婦連れのスパイを見かけたが、一人は海へ飛びこむし、他の一人は行方不明になるし、それで、この騒ぎですよ」
「それは、どこの国のスパイですかね」
「もちろん、ドイツ側のスパイですよ」
「ああ、ドイツですか。けしからんですなあ。しっかり、気をつけていてください」
アンが、しきりに服を引張るので、仏は、そのくらいにして、出札口を離れたが、そのとき、駅員の前に、「要監視人《ようかんしにん》通告書」という紙が載《の》っていて、そこに、「間諜《かんちょう》フン大尉の件」という見出しのついていたのを、目敏《めざと》く読みとった。
(フン大尉か)と、仏は口の中で間諜の名をくりかえした。
アンは、不機嫌だった。
「あなた。さっきの防空壕のこともあるんですから、あまりあたしたちにとって不利な発言は、なさらないようにね」
「不利な発言? おれがいま駅員と話をしたことが、それだというんだね」
アンは、黙ってうなずいた。
「なあに、大丈夫さ。でも君が心配するなら、以後は、口を慎《つつし》もう」
「それがいいわ。お互《たがい》のためですもの」
アンは、機嫌をなおして、甘えるように、仏の腕にすがりついた。
列車はホームについていた。大時計を見ると、今発車という間際《まぎわ》だった。仏は愕《おどろ》いて、アンを抱《かか》えるようにして十三号車に飛びのった。
7
リバプールからロンドンまでは、四百数十キロの道程《みちのり》があった。特別急行列車は、この間を十時間で走ることになっていた。だから、午後七時ごろには、ロンドン着の筈であるが、今は、ドイツ機の空襲が頻繁《ひんぱん》なので、いつどこで停車するかわからず、ひょっとすると、ロンドン入りは、翌朝になるかもしれないという車掌《しゃしょう》の談《はなし》であった。
アンと仏《フォー》とは、十三号車の中の、一つのコンパートメントを仲良く占領することが出来た。
この十三号車は、わりあいすいていたようである。誰も、この空襲下に、わざと縁起《えんぎ》のよくない座席を選ぶ者もなかったからであった。
「あなたは、黙っていらしてよ。女が出る方がすらすらといきますからね」
アンが、そういったのは、車内に於ける乗客取調べのことであろう。もちろん、仏にとっては、そんな煩《わずら》わしいことに、頭を使いたくなかったので、万事《ばんじ》アンに委《まか》せることに同意した。
列車憲兵《れっしゃけんぺい》が、廻ってきた。
「ロンドンへは、どういう用件でいかれますかね」
憲兵は、記名の切符を、アンへ戻しながら、油断のない目で、アンを見つめた。
「夫が、このとおり、空襲で頭部《あたま》に負傷いたしまして、なかなか快《よ》くならないんですの。早く名医《めいい》の手にかけないと、悪くなるという話ですから、これからロンドンへ急行するんです」
「ほう、それは、お気の毒ですね。負傷は、どのあたりですか」
「ちょうど、このあたりです」
と、アンは、前額《ぜんがく》のすこし左へよったところを指し、
「見たところ、傷は殆どなおっているんですけれど、爆弾の小さい破片が、まだ脳の附近に残っているらしいのです。レントゲン――いえ、エックス線の硬いのをかけて、拡大写真を撮らないと、その小破片《しょうはへん》の在所《ありか》がわからないのですって。ですけれど、こうしていつも傍《そば》についているあたしの感じでは、その小破片は、もうすこしで、脳に傷をつけようとしているんだと思います」
「ああ、よくわかりました。奥さんも、御心配でしょう。御主人の御本復《ごほんぷく》を祈ります。じゃあ、ロンドンの中国大使館へは、私の方から取調べ票《ひょう》を送って置きますから」
「はい、どうもありがとうございました」
「じゃあ御大事に。蒋将軍にお会いになったら、どうぞよろしく」
憲兵は、最後に、仏天青《フォー・テンチン》に挨拶《あいさつ》すると、次のコンパートメントへ移っていった。
アンと憲兵との会話を、傍で聞いている間に、仏は、異常な興奮を覚えた。
(まだ、アンを疑っていたが、とんでもないことだった。アンは、たしかに、自分の妻にちがいないんだ。なぜって、自分さえ知らない頭部の負傷のことを、その始めっから、現状まで、くわしく心得ているのだ。妻を疑ってすまなかった。もう妻を疑うのは、この辺で、はっきりお仕舞《しまい》にしよう)
彼は、アンに対し、それを口に出して、謝《あやま》りたくて仕方がなかった。しかし、そんなことをすれば、アンの軽蔑《けいべつ》をうけるばかりで、何の益《えき》にもならないと思ったので、それはやめることにして、只《ただ》心の中で、アンに詫《わ》びた。
アンと憲兵との話によって、仏は、かねて知りたいと思っていた頭部の負傷の謎が解けたことを、たいへんうれしく思った。
これは、空爆《くうばく》で、爆弾の破片によってうけた傷であったのか。前額の左のところに、その気味のわるい前途《ぜんと》を持った傷口があったのか。そんなことを考えると、その傷口のことが、俄《にわか》に心配になった。そこで、そっと手をあげて、包帯《ほうたい》のうえから、傷口を抑《おさ》えようとした。
「およしなさい、あなた。触っちゃ、いけません。脳の傷は恐しいのです。刺戟《しげき》を与えることは、大禁物《だいきんもつ》ですわ」
そういって、アンは、仏の手をおさえて、彼の膝
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