刻な顔をしなくてもいいだろうにと、仏は思ったことである。
 ロンドン行の切符をアンが買った。そのとき切符売場で駅員とアンの間になにかごたごた押問答の場面があったが、アンが旅券みたいなものを示し、そして仏天青《フォー・テンチン》を呼びつけて、彼の顔を駅員に見せることによって、二枚の切符は、ようやく窓から差し出されたのであった。
「いやに、うるさいのですね」
 と、仏が、鉄格子《てつごうし》の中を覗きこみながら、いうと、
「おう、若い中国の方。今朝から、特別の警戒なんですよ。桟橋附近で、夫婦連れのスパイを見かけたが、一人は海へ飛びこむし、他の一人は行方不明になるし、それで、この騒ぎですよ」
「それは、どこの国のスパイですかね」
「もちろん、ドイツ側のスパイですよ」
「ああ、ドイツですか。けしからんですなあ。しっかり、気をつけていてください」
 アンが、しきりに服を引張るので、仏は、そのくらいにして、出札口を離れたが、そのとき、駅員の前に、「要監視人《ようかんしにん》通告書」という紙が載《の》っていて、そこに、「間諜《かんちょう》フン大尉の件」という見出しのついていたのを、目敏《めざと》く読
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