えないらしい。
「あなたァ、そっちへいっちゃ駄目よ。いいから、そこを滑《すべ》り下《お》りて……」
そのときには、彼の躯《からだ》は、早くも斜面の端《はし》からはみ出し、ずるずると下に落ちていった。
「あなたァ、どうなさったかと思っていたわ。まあ、よかった。おお神さま」
見ると女は、口先だけで、神の名を称《とな》え、そしてその眼は、仏天青の眼に、じっと注《そそ》がれていた。
「君は……」
といおうとすると、
「あなたァ……」
といって、いきなり女の両の腕が、仏《フォー》の首《くび》にまきついた。後は、何もいうことが出来なかった。彼の口は、女の唇で、ぴたりと蓋をされてしまったのである。彼は、気が遠くなる想《おも》いで、躯の自由をうしなってしまった。
ただそのとき覚えているのは、やや、しばらくして、女が、はげしい息づかいとともに、彼の耳に、いくども囁《ささや》いた言葉だった。
「……なんにも言わないで……なんにも考えないで……そしてもうあたしを捨てていかないでよゥ」
彼は、名状《めいじょう》すべからざる困惑《こんわく》を感じた。しかし遂《つい》に、彼は女の躯から手を放そうとはし
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