は、きっと、遠い広東《カントン》省かどこかにあるのであろう)
中国と思えば、ふと「広東省」という地名が、頭脳の中から飛び出してきた。だが、それ以上に発展しなかった。
(この土地は、たしかにイギリスにちがいないが、自分は何用《なによう》あってこんなところへ来たのであろう)
赤十字のマークをつけた病院の自動車が三台、町の方からやってきて、彼の傍を通り過ぎていった。
(おれは一体、幾歳《いくさい》ぐらいの男なんだろう)
彼は、ふと立《た》ち停《どま》って、あたりを見まわした。目についたのは、畦道《あぜみち》の傍《そば》を流れる小川だった。
彼は、そこまで歩いていって、恐《おそ》る恐る、しずかな流れに顔をうつした。
「や、おれは、頭に怪我《けが》をしていたんだ。そうそう二三日前に気がついたんだが。何の怪我かしらん。おう、あ痛《いた》ッ」
彼は、痛々しい自分の頭の包帯《ほうたい》にびっくりしてしまって、とうとう自分の顔から自分の若さを読みとる余裕《よゆう》がなかった。
そのところへ、サイレンが、けたたましく鳴り出した。
「あ、空襲警報《くうしゅうけいほう》だ!」
彼は、畦道をすっとんで、舗道の上へおどりあがった。きょろきょろ四周《あたり》を見まわしたが、防空壕《ぼうくうごう》らしいものはなかった。
「どうしよう?」
彼は途方《とほう》に暮れて、なおもうろうろしていた。するとそこへ走ってきた一台のトラックが、傍《わき》へぴたりと停った。
「早く乗れ」
トラックの上から、手が出ると、やっという懸《か》けごえと共に、彼は車上《しゃじょう》に引き揚げられた。
3
トラックの上には、いろいろな種類の人間が乗っていた。いずれも皆、そのあたりを歩いていた町の人々らしかった。
トラックは、それから暫《しばら》く走ったが、やがて「防空壕アリ」と建札《たてふだ》のあるビルディングのところまで来ると、ぴたりと停った。
「さあ、防空壕へはいった。しずかに、そして早く……」
指導員らしいのが叫んだ。
仏天青《フォー・テンチン》も、人々のうしろから、柵の中にはいった。狭い下《くだ》り坂《ざか》を、ついていくと、やがて、電灯のついただだっ広《ぴろ》い部屋が見えた。ぷーんと饐《す》えくさい空気が、彼の鼻をうった。
彼の頭は、急に、ずきんずきんと痛みだした。よほど廻れ右をしようかと思ったが、あとからまた押してくる人で、それは不可能だった。
婦人の金切声《かなきりごえ》と、子供の泣き叫ぶ声とで、壕の中は、さらに息ぐるしかった。天井は、角材を格子《こうし》に組んであったが、非常に低かった。換気《かんき》もよろしくない。監獄の防空室にくらべると、たいへん劣《おと》る。
「おい、立ち停《どま》らんで、もっと奥へはいってくれ」
「そう押しても、駄目だよ。前には、子供がいるんだ」
「おい、煙草の火を消せ。消さないと、つまみ出すぞ」
人気《にんき》は荒かった。彼は押されているうちに斜面《しゃめん》を滑《すべ》って、避難の市民の頭のうえに墜《お》ちそうになった。
すると、下から、彼の服を引張った者がある。
「おい、乱暴するな。墜ちるじゃないか」
彼は、眩《まぶ》しい電灯の下にあったので、顔をしかめて、下を見た。
「あなたァ、ここよ。早く早く」
「え」
見ると、見も知らぬ若い白人の女が、しきりに、彼の中国服の裾《すそ》を引張《ひっぱ》っているのであった。
「誰です、君は。人違《ひとちが》いでしょう」
彼は、そう叫びかえしたが、その女には、すこしも聞こえないらしい。
「あなたァ、そっちへいっちゃ駄目よ。いいから、そこを滑《すべ》り下《お》りて……」
そのときには、彼の躯《からだ》は、早くも斜面の端《はし》からはみ出し、ずるずると下に落ちていった。
「あなたァ、どうなさったかと思っていたわ。まあ、よかった。おお神さま」
見ると女は、口先だけで、神の名を称《とな》え、そしてその眼は、仏天青の眼に、じっと注《そそ》がれていた。
「君は……」
といおうとすると、
「あなたァ……」
といって、いきなり女の両の腕が、仏《フォー》の首《くび》にまきついた。後は、何もいうことが出来なかった。彼の口は、女の唇で、ぴたりと蓋をされてしまったのである。彼は、気が遠くなる想《おも》いで、躯の自由をうしなってしまった。
ただそのとき覚えているのは、やや、しばらくして、女が、はげしい息づかいとともに、彼の耳に、いくども囁《ささや》いた言葉だった。
「……なんにも言わないで……なんにも考えないで……そしてもうあたしを捨てていかないでよゥ」
彼は、名状《めいじょう》すべからざる困惑《こんわく》を感じた。しかし遂《つい》に、彼は女の躯から手を放そうとはし
前へ
次へ
全21ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング