、全く思い出せないふしぎさ。彼は、自分自身が、一体何者であるかを知ろうとして、焦《あせ》った。
「おれは、中国人かな。どうも、おかしい」
 そのとき、彼は、ふと自分の足許に転《ころ》がっている紙包に気がついた。それは、監嶽を出るとき、看守から渡されたものであった。
 どうやら、これは、自分の所持品らしいが、一体中には、何が入っているのであろうか。その中にこそ、彼の素姓《すじょう》を語る貴重な資料があるのに違いない。彼は一大発見をしたように思い、声をあげて、大急ぎでその新聞紙包の紐《ひも》を解いてみた。
 中から、出て来たものは、一体何であったろうか?


     2


 一着の、長い中国服だ!
 中から出てきたものは、裾も手も長い、まっ黒な地色の中国服であった。そのほかになにもない。
「中国服か、やっぱり……」
 彼は、首を左右にふりながら、服の裏をかえしてみた。すると、そこに白い糸で、仏天青《フォー・テンチン》と、漢字が縫つけてあった。
「仏天青? はてな、これが、おれの名前かな」
 仏天青といえば、中国人の名前のようである。するとやっぱり、自分は、中国人なのであろうか。
 看守が君の元首蒋将軍によろしくといったことが思いあわされる。
「中国人だったのか、おれは……」
 仏天青――と今後彼をそう呼ぼう――は、まだぴったりしないような顔付で、ひとりごとをいった。
 それから仏《フォー》は、ふと、今自分が着ている服に目をうつした。それは中国服ではなく、タキシードであった。しかしひどく汚れていた。上も下も胸も、泥まみれになっていたうえ、肘《ひじ》のところは破れ、ズボンにも、かぎ裂《ざ》きのような箇所があり、見れば見る程、見られたざまではなかった。
「ふーん、これはどうしたんだ」
 どこで、こんなに土まみれとなり、かぎ裂きをこしらえたのであろうか。彼は、急に恥《は》ずかしさがこみあげて来た。そこで、彼は下に落ちていた中国服をとりあげると、埃《ほこり》をはらって、タキシードの上から着た。そして、あわてて襟《えり》を合わせた。
 彼は、それからまた歩きだしたが、何思ったか、また引返した。そして舗道《ほどう》のうえを風にあおられて匐《は》っていく、包紙の新聞紙を、靴の先で踏まえた。彼は、その新聞紙をとりあげて見ていたが、そのまま畳《たた》んで、タキシードのポケットにねじこんだ。
 ところが、そのとき彼は、また大発見をしたのだ。タキシードのポケットに手を入れてみると、何か硬い表紙をもった帳面のようなものが手に触《ふ》れたのである。なんだろうと、引張《ひっぱ》り出してみて愕《おどろ》いた。それは、銀行の預金帳であった。二冊もあった。
 彼は、ますます愕いて、二つの預金帳の頁《ページ》を開いて、しらべた。一冊は英蘭《イングランド》銀行のもので在高《ざいだか》は五万ポンド、もう一冊はフランスのパリ銀行のもので七百十七万フランばかりの在高が記入してあった。そして、どっちの帳面にも、この預金主の名として「ミスター・F」とのみ記《しる》されてあった。
 これは、ミスター・Fの財産だ。相当の金だ。
 彼は、ほっと安心していいのか、それとも他人の金を握ったことを気味わるく感じるべきかについて迷った。
 だが、結局、ミスター・Fというのは、中国人|仏天青《フォー・テンチン》の略称《りゃくしょう》であろうと気がついたので、ようやく心は一時|落着《おちつ》いた。
「この分なら、ポケットから、もっといろいろなものが飛び出して来やしないかなあ」
 そう思った彼は、また中国服の前を開き、タキシードのポケットというポケットを探した。
 ズボンの右のポケットに、ロールしたパンがぺちゃんこになって入っていた。口のところへ持っていくと、ぷーんと黴《かび》くさい臭《にお》いがしたので、舗道《ほどう》のうえへ叩きつけた。そのほかには、油に汚れたよれよれのハンカチーフが出てきただけであった。手帳もなければ、紙幣入《かみい》れもない。銀貨銅貨一つさえ見当らなかった。
「タキシード一着、中国服一着、預金帳二冊、ハンカチーフにパン――これだけが仏天青氏の素姓《すじょう》を語る材料なんだ。ふふん」
 不安の中に戦《おのの》いていた彼は、そこで思いがけないパズルの題を渡されたような気がして、なんだか楽しくなってきた。そして、また舗道のうえを、リバプールに向けて歩きだしたが、彼の足どりは、以前にも増して、元気をつけ加えたようであった。
 空は、どんより曇っていた。しかし、風が相当吹いていたから、やがて晴天《せいてん》になるであろう。
(さて、これから自分は、いかにして、わが家に戻るべきであろうか)
 阻塞気球《そさいききゅう》は風に揺《ゆ》れていた。
(おれは旅人《たびびと》らしい。わが家
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