なかった。自分の胸の中で、鳴咽《おえつ》するその女が、ただもういじらしくて仕方がなかったし、それに、
(うむ、ひょっとすると、この女は、自分の女房《にょうぼう》であるかもしれない)
と思ったのである。
彼は、女の髪をやさしく撫《な》でてやった。
女は、また更に大きな声をあげて、彼の胸の上で泣きだした。
(……おれは、女房にめぐり合ったんだ。どうも、それに違いない。女房のやつ、おれがもう監獄から出てくるかと思って、今日もこのへんをうろうろしていたんだ。そこへ空襲警報が鳴り響き、この防空壕へとびこんだ。そして神の名を呼んでいると、その前へ、いきなりおれの顔が電灯の光の中に現れた。そこで必死になって、おれの服をもって引き下ろしたのだ。どうも、そうらしい。いや、それに違いない)
彼は、女の髪の上に、そっと唇を押しつけた。
(……おれの女房は、空襲が終ったら、おれを自分の家へ連れていってくれるだろう。そして、おれが知りたいと願っていたおれの過去について、すっかり説明をしてくれるだろう)
彼は、女の背に、手をまわした。
「おう、可愛い私の……」
彼は、その先の言葉につまった。
「私のアン……」
女が、そういった。
「そうだ。可愛い可愛い私のアン。私はもう、どこへもいきはしないよ」
彼は、そういうと、唇をかんだ。頬を、止《と》め度《ど》もなく、熱い涙がほろほろと、滾《こぼ》れ落ちた。
4
仏天青《フォー・テンチン》は、アンと抱きあっていた。
それから暫《しばら》くして、彼は、アンの腰のあたりに、変に硬いものが当るので、ふしぎに思って、そこを見た。
「おや、アン。これはどうしたのかね」
彼は、アンの腰に、丈夫《じょうぶ》な綱《ロープ》がふた巻もしてあるのを発見した。しかもその綱の先は、防空壕の肋《ろく》材の一本に、堅く結んであった。まるで囚人《しゅうじん》をつないであるような有様であった。
「いいのよ、あなた」
「よかないよ。説明をおし。これじゃ、まるで……おや、手も、そうじゃないか」
アンの手首は、いつの間にか綱《ロープ》でしばられていた。
「大丈夫。手首はぬけるのよ」
といって、アンは、綱のくくり目から、手首をぬいてみせた。しかし腰の紐《ひも》までは、ぬいてみせなかった。もちろん、それは抜けないように二重に縛ってあった。
「アン。なにもかもお話し。一体……」
「しっ」
そのとき、仏天青のうしろから、どら声を張りあげたものがあった。
「こら、女。逃げると承知しないぞ」
仏は、むっとして、うしろを振り向いた。胸に徽章《きしょう》を輝かした私服警官が立っていた。
アンは、綱でしばられたまま手首をつと動かして、仏の服をおさえた。
「あなた、黙ってて……」
アンは、彼に注意を与えると、私服警官の方へ仰向《あおむ》き、
「あたしの夫が、帰って来てくれました。このとおり、あたしを抱いていてくれます。人違《ひとちが》いだとお分りでしょう。このいましめの綱を、解いてくださいませ」
「なんじゃ。お前の亭主が帰って来たと。なるほど、中国人らしい面じゃ……だが、本当かどうか信用できるものか」
「そんなことは、ありません。ねえ、あなた。この警官は、なにか大へん勘ちがいをしていらっしゃるのですよ。結婚のとき取交《とりか》わしたあたしの名前を彫《ほ》った指環《ゆびわ》を見せてあげてください……」
「指環? 指環どころか一切の所持品は……」
盗られてしまったと、仏《フォー》はいいかけたのを、アンは素早く引取って、話題を転じた。
「けさのことよ。リバプールの桟橋《さんばし》から、海へ飛びこんだ男があったのよ。そのとき、たいへんな騒ぎが起ったんですけれど、この警官たち、あたしが、その自殺男の妻君《さいくん》にちがいないとおきめになって、とうとうこんな目に……」
「自殺男じゃない」と、私服警官は、アンを怒鳴《どな》りつけたが「まあ、もう少し温和《おとな》しくして待っていろ、空襲が終り次第、どっちが、お前の本当の亭主だか、よく調べてやる」
仏は、黙りこくって、唇を噛んだ。
そのとき、とつぜん、飛行機の爆音を耳にした。
「ひえーッ、敵機が……」
「ああ神よ、われらを護《まも》り給《たま》わんことを」
防空壕の人々の中からは、一せいに悲鳴《ひめい》と祈りとが起った。と、あまり遠くないところで、轟然《ごうぜん》たる爆発音が聞え、大地はびしびしと鳴った。
「墜《お》ちた、近いぞ」
わァと喚《わめ》いて、逃げ腰になる。それを、叱りつける者がある。
仏とアンとの傍に立っていた私服警官は、二人を睨《にら》みつけておいて、そのまま身を翻《ひるがえ》すと、防空壕の入口の方へ駈け上っていった。
また、爆音が聞えた。今度は、よほど近い
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