いますか」
「そうですか。では……では、宿泊所へ案内して頂きましょうか。私は、早く博士にお目に懸《かか》りたいのでしてね」
「よろしゅうございます」
 門衛は、別なところへ、電話をかけた。そして、副長の命令により客人《きゃくじん》のため室を用意するようにいった。
「今、宿泊所の女が迎えに参りますから、ちょっとお待ちを」
 仏天青《フォー・テンチン》は、礼をいって、鞄《かばん》を下に置いた。
「なかなかここは眺望《ちょうぼう》もいいし、そして広大ですね」
「そうです。ここは王立《おうりつ》になっているのですからなあ」
 そのうちに、だんだんあたりは薄暗《うすぐら》くなった。
「どうしたのか、宿泊所の者は……」
 門衛は、窓から伸びあがって、奥の方を見ていたが、
「あ、来ました。さあ、どうぞ」
 砂利《じゃり》を踏む音が聞えた。エプロンをかけた若い女が、迎えに来た。仏は、その女の顔を見たとき、もちっとで呀《あ》っと叫ぶところだった。その女も、愕《おどろ》いて、思わず足を停めた。
「おい、ネラ。ドクター・ヒルの紹介の方だから、さっきいったように、丁重《ていちょう》にナ」
「は、はい」
 ネラ? ネラは、門衛から、仏の鞄《かばん》を受取った。
「どうぞ、こちらへ……」
 仏は、ネラと呼ばれる女と、藍色《あいいろ》ようやく濃い研究所の庭を、砂利をふみつつ、奥の方へ歩いていった。
「アン」
「はい」
「君は……いや、もうなにもいうまい」
 仏天青を迎えに出たネラは、アンであったのである。彼のふしぎな妻であったのである。
「あたくし、愕きました。どうなさいます、あなたは……。復仇《ふっきゅう》をなさいますか?」
「……」
 仏は、嵐のような激情《げきじょう》の中に、やっと躯を支《ささ》えていた。それが、せい一杯だった。
「なぜ、御返事がありませんの」
「アン、お前は、ここで何をしているのか」
「あなた。この前のように、あたくしを愛していてくださいません?」
 アンは、別なことをいった。
「……もし、愛していたら……」
 仏は、やっとそれだけいった。
「ああ、あたくしを愛していてくださるんですね、お叱《しか》りもなく……。一生のお願いがありますわ。聞いてくださる?」
「……聞かないとはいわない」
「ほほ、消極的な御返事ね。お願いしたいというのは……どうか明朝まで、あたくしがここにいるという事を忘れていてくださいまし」
「なに。なぜ、そんな……」
「さあ、それなのよ。なにも聞かないで、明朝まで……。お約束してくださる?」
 アンは、仏の傍《そば》へすりよって、彼の明快な返事を求めた。
「お前がそれを欲《ほっ》するなら……」
 仏は苦しそうに、応《こた》えた。
「だが……」
「だが?」
「また、おれを……ここへ残して、逃げていくのではあるまいね」
「いいえ、明朝、きっとお目に掛《かか》るわ。約束を聞いてくだすってありがとう。それまで、どんなことがあっても、どんなものを見ても、あたしに何も訊《き》かないでね、きっと明朝まで、あたしというものを忘れていてくださるのよ。ああ、うれしい。あなたは、きっとこの秘密を守ってくださるでしょうね」
「うむ、男らしく、おれは約束を守ろう。しかしアン。その前に、ただ一言、教えてくれ。お前は、本当に、おれの妻か」
「明朝まで、お待ちになって!」
「じゃあ、おれは、本当に仏天青か」
「それも明朝までお待ちになって。男らしくお待ちになるものよ」
「……」
 仏は、拳を握って、自分の胸を、とんとんと叩いた。


     16


 アンは、マネキン人形のような白々《しらじら》しさにかえって、彼を階上の部屋へ案内した。
「では、どうぞ。防空壕は、第二階段をお下りください。窓の遮蔽《しゃへい》は、おさわりになりませんように。失礼いたしました」
「君の部屋の電話番号は……」
「構内四百六十九番です。しかしあたくしはたいてい外を廻っておりますので、不在勝《ふざいが》ちでございます」
「明朝《みょうちょう》、きっと、ですよ」
 仏《フォー》は、アンの手を取ろうとしたが、アンはそれを振り払って、風のように部屋を出ていってしまった。
 それから暫《しばら》くして、食事を告げに来た女は、アンではなかった。それっきり、アンの姿は、仏の目にとまらなかった。
 仏は、自室に戻ったが、落着いていられなかった。アーガス博士が帰って来たという知らせは、いつまで経っても、かかって来なかった。彼は仕方なく、寝床に入ることに決めた。彼は、いつもよりは多量の睡眠剤をとることによって、希望の朝をすこしでも早く迎える用意をした。
 寝床に入ると、彼は、すぐ電灯のスイッチをひねった。彼は、間もなく、泥のような眠りに落ちていった。


     17


 午前三時
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