《にわか》に目を輝かせて、室の隅に置いてあった手提鞄《てさげかばん》を、卓子《テーブル》のうえに置いた。
「院長、では、これを見て、判断していただきましょう。当時、私が身につけていたものは、大切に、皆ここに蔵《しま》ってあるのです」
そういって、彼は、鞄を開くと、中から、長い中国服を出し、それから汚れきった破れ目だらけの服を出し、ぺちゃんこになったパンに新聞紙に、それから異臭《いしゅう》を放つ皺《しわ》くちゃのハンカチーフ迄、すっかり卓子のうえに取出した。
「その外に、この貯金帳が二冊あるのです。院長、お分りになりますか」
「さあ、私では駄目なんですがねえ」
といいながらも、ドクター・ヒルは、そこに並べられた品物を、一つ一つ、念入りに拡大鏡《かくだいきょう》の下に見ていたが、やがて腰を伸ばし、
「私の拝見したところで、最も興味を惹《ひ》かれるものが二点あります。それは、この汚れ切って破れ目だらけの服と、それからもう一つは、油じみたハンカチーフです」
「はあ、そうですか。そんなものが、私の素姓《すじょう》について、一体なにを語っていましょうか」
「さあ、それは、私の力では、はっきり解《と》いてお話することが出来ないのです。こういう方面にすこぶる明るい私の友人を御紹介しましょう。アーガス博士といいますが、クリムスビーに住んで鑑識研究所を開いています。そこへいらっしゃるがいいでしょう。このズボンについている泥だとか、ハンカチーフについている血や油などについて、彼はきっと、あなたをびっくりさせるに充分《じゅうぶん》な鑑定《かんてい》をなすことでしょう」
「あ、そうですか。それは、実にありがたい。アーガス博士でしたね」
「そうです。博士は、ひところ、警視庁でも活躍していた人ですが、今は、自分の研究所に立て籠《こも》っています」
「クリムスビーですか。どこでしょうか、その、クリムスビーというのは」
「クリムスビーというと、北海《ほっかい》へ注《そそ》ぐハンバー河口《かこう》を入って、すぐ南側にある小さい町です。河口は、なかなかいい港になっています」
「はあ。北海に面した良港の中にあるのですね。じゃあ、私はすぐ、そのクリムスビーへいって、アーガス博士にお願いしてみましょう」
「いま、紹介状を書いてさし上げます、ミスター・F!」
15
午後遅くクリムスビーの駅に下りて、仏天青《フォー・テンチン》はおどろいた。こんなものものしい警戒は、はじめて見た。
“中国大使館参事官仏天青氏を御紹介す。アーガス博士殿”
というドクター・ヒルの紹介状が、とんだところで効《き》き目をあらわして、仏は、無事に駅の階段を、町へ降りることが出来た。
「アーガス博士の鑑識《かんしき》研究所へやってくれないかね」
駅の前に待っているタクシーの運転手に話しかけると、黙って、隣りを指した。
タクシーの隣りには、馬車があった。老人の馭者《ぎょしゃ》が、この喧噪《けんそう》の中に、こっくりこっくり居眠りをしていた。馬車とは愕《おどろ》いたが、
「アーガス博士の鑑識研究所へいってくれるかね」
と、仏が大きい声で怒鳴《どな》ると、馭者の老人は、やっと目を覚ました。そして二三度、丁寧に聞き返した後で、さあ乗って下さいといった。
馬車は、雑閙《ざっとう》する町を後にして、山道にかかった。
「爺さん、鑑識研究所だよ」
「わかっていますよ。鑑識研究所は、この山のうえだ。あと三十分かかるよ」
「なあんだ、山の上に在《あ》るのか」
馬車にゆられていくほどに、仏天青は、眼下に開けるハンバー湾のものものしい光景に、異常な興味を覚えた。
河口《かこう》には、たしかに防潜網《ぼうせんもう》を吊っているらしい浮標《ブイ》が、夥《おびただ》しく浮び、河口を出ていく数隻《すうせき》の商船群《しょうせんぐん》の前には、赤い旗をたてた水先案内《みずさきあんない》らしい船が見えるが、これは機雷原《きらいげん》を避《さ》けていくためであろう。またはるかに港外には駆逐艦隊《くちくかんたい》が活発《かっぱつ》に走っていた。
(ドイツ軍の上陸作戦を、極度《きょくど》に恐れているのだな)
仏《フォー》は、河口の異風景《いふうけい》に気を取られているうちに、馬車は、いつの間にか、小さい山を一つ登って、鑑識研究所の前についた。
仏は、門衛《もんえい》に、刺《し》を通じた。
門衛は、紹介状の表を見て、本館へ電話をかけた。
「所長は、生憎《あいにく》出張中ですが、今夜あたり、ここへお戻りです。副長《ふくちょう》からのお話ですが、明朝《みょうちょう》、もう一度、御出で願うか、それとも御急ぎなら、所に附属している宿泊所《しゅくはくじょ》で、お待ちになってはということでございますが、どっちになさ
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