たところに反して、ホームの上には、彼を待っているアンの姿が、見当らなかったのであった。
 車掌は、彼を、駅の会計室へ引張っていこうとした。彼は、それを後にしてくれと拒《こば》んだ。そして暴れた。車掌は仕方なく、彼のあとについて、彼と共に、改札口の外に出、それから駅の中をぐるぐると廻り、そして、掲示板《けいじばん》という掲示板の前を巡礼《じゅんれい》させられた。その揚句《あげく》の果《はて》に、仏天青は、遂に病人のように元気を失ってしまった。そして車掌に言った。
「おれのする事は、もう終った。さあ、今度は、どこなりと、君が好きなところへ、引張っていきたまえ。あーあ」


     12


 彼は、空襲警報と爆撃の音とを子守唄として、三日間を、ホテルの中で、眠ってばかりいた……
 ロンドン駅についてから、彼は一旦《いったん》警視庁の手に渡り、それからものものしい借用証書《しゃくようしょうしょ》に署名して、やっと放免された。
 それから彼は、乗車賃の借りをかえすためにも又生活をするためにも、金が必要だったので、英蘭《イングランド》銀行へいって払出書《はらいだししょ》を書いた。ところが、銀行からは、体《てい》よく断られてしまった。どうも、サインが前のものと違っているから、帳簿に乗っているとおりのものを思い出してくれというのであった。
 彼は、かーっとなったが、それでも、虫を殺して、一旦銀行を出た。
 銀行を出ようとして、彼が、掲示板の中に、パリ銀行のロンドンに移転してきた告知《こくち》ポスターを見落したとしたら、彼の上には、もっと深刻なるものが降ってきたことであろう。幸《さいわ》いにも、彼は、それに気がついたので、その足で、パリ銀行の臨時本店へいってみた。そこで彼は、十万フランの払出請求書《はらいだしせいきゅうしょ》を書いた。すると行員《こういん》は、気の毒そうな顔をした。また、駄目かと、彼は苦《にが》い顔をしたが、行員は、
「誰方《どなた》にも、只今、一日五千フラン限りとなっていますので、事情《じじょう》御諒承《ごりょうしょう》ねがいます」
 といった。彼は、それならばというので、請求書を五千フランに書き改めると、銀行では、それに相当する英貨《えいか》で、払ってくれた。彼は、やっと大|安堵《あんど》の息をついた。これで、乾干《ひぼ》しにもならないで済《す》む。
 それから、彼は、このホテルに逗留《とうりゅう》することとなったのである。
 休養だ! そして睡眠だ!
 彼は、ただもう昏々《こんこん》と眠った。空襲警報が鳴っても、ボーイが、よほど喧《やかま》しくいわないと、彼は、防空地下室へ下りようとはしなかった。地下室の中でも、彼は、遠方から地響《じひびき》の伝わってくる爆撃も夢うつつに、傍《かたわら》から羨《うらや》ましがられるほど、ぐうぐうと鼾《いびき》をかいて睡った。
 三日間の休養が、彼を非常に元気づけた。彼は、アンに捨てられたことを自覚し、そしてアンのことを思い切ろうと決心した。そんなことが、一層彼の頭の中から、苦悩を取り去ったものらしい。
 四日目、五日目は、ドイツ機の空襲が、ようやく気に懸《かか》るようになった。彼はようやく常人化《じょうじんか》したのであった。
 六日目は、朝から市中へ出て、爆撃の惨禍《さんか》などを見物して廻った。爆撃されているところは、煉瓦《れんが》などが、ボールほどの大きさに砕《くだ》かれ、天井裏《てんじょううら》を露出《ろしゅつ》し、火焔《かえん》に焦げ、地獄のような形相《ぎょうそう》を呈《てい》していたが、その他の町では、土嚢《どのう》の山と防空壕の建札《たてふだ》と高射砲陣地がものものしいだけで、あとは閉《しま》った店がすこし目立つぐらいで、街はやっぱり華美《かび》であった。
 防毒面《ぼうどくめん》こそ、肩から斜めに下げているが、行きずりの女事務員たちは、あいかわらず溌剌《はつらつ》として元気な声をたてて笑っていたし、牝牛《めうし》のように肥えたマダムは御主人にたくさんの買物を持たせて、のっしのっしと歩いていた。彼らは、ロンドンの空一杯に打ちあげられた阻塞気球《そさいききゅう》を、ひどく信頼しているのか、それとも、自分だけには、ドイツ軍の爆弾が命中しないと信じているか、どっちかであるように見えた。
 その日、半日の散歩で、彼は自分が、世の中から忘れられた人であることに気がついて、それがどうも気になってたまらなかった。やっぱり彼は、何を置いても、自分の素姓《すじょう》を知ることが先決《せんけつ》問題であると、そこに気がついた。
 今や元気と常識とを取り戻した彼は、勇躍《ゆうやく》して、その仕事《ビジネス》についた。また新たに、生きている張合《はりあ》いといったものが感じはじめられた。彼は、ふ
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