…」
仏天青《フォー・テンチン》は、その然《しか》らざる所以《ゆえん》を滔々《とうとう》と述《の》べた。そして、一列車前の十三号車に乗っている彼の妻君アンに連絡してくれれば、万事《ばんじ》明白《めいはく》になるからと、しきりにその事を申し述べたのであるが、車掌と憲兵とは、それを実行しようとも何とも言わずに、彼を三等車の隅っこに押しこんで、附近の乗客に、彼を監視しているように命じた。
こうして、彼の不愉快な列車旅行が始まったのであった。
幸いに、彼を監視の乗客たちは、この顔色の黄いろい中国人をむしろ気味わるくおもっていたので、ときどき彼を睨《にら》みつける位のことで、手を出して迫害《はくがい》せられるようなことはなかったので、この点は大いに助かった。
彼は、不愉快のうちに、これまでの突拍子もない事件のあとを、静かにふりかえる時間を持った。
(一体、おれは、仏天青氏なのか、それとも他人なのか?)
アンは、自分が仏天青であることに異存《いぞん》はなかった。ブルート監獄の看守も「ミスター・F」と呼んでくれた。アンと一緒に乗り込んだ前の列車の憲兵も、同じく彼を仏天青と認めてくれた。それに、彼は仏天青|名義《めいぎ》の二冊の貯金帳を持っているではないか。
彼が“仏天青”ではないと言われたのは、バーミンガム駅にいた女だけだった。いや、それから、この列車の憲兵と車掌も、彼に対し幾分|疑惑《ぎわく》を持っているのだ。
これらを差引きして考えると、彼が仏天青であることの方が、そうでないことよりも、有力であると考えられる。あの女に逢うまでは、このような疑惑は、殆《ほとん》ど起らなかったのだ。あのバーミンガムの女こそは、懐疑《かいぎ》の陰鬼《いんき》みたいなものであった。
(おれは、仏天青に違いないのだ!)
そう思いながらも、彼は、あの女の残していった科白《せりふ》、
“こんな若僧《わかぞう》じゃない!”
という言葉が、いつまでも無気味《ぶきみ》に思い出されるのであった。
彼のもう一つの当惑《とうわく》は、妻君のことだった。バーミンガムの駅で、あの女に取《と》り縋《すが》られたときには、妻が二人出来たかと思って、すくなからず愕《おどろ》いたのだった。つまり、列車の中に待っている可愛いアンと、そしてこの塩漬《しおづ》けになったような中国女であった。
(女房を二人も持ってしまうなんて……)
と、そのときは、当惑したものであるが、しかるに只今、彼の身辺《しんぺん》には、二人妻どころか、只の一人も、妻がついていないのであった。彼は、全く変な気がした。……
そんなことを考えつづけているとき、さっきから、彼をこっぴどい目にあわせた車掌が、彼の前を通りかかった。
「もし、車掌さん。前の列車にいるアンと、連絡がつきましたかね」
彼は、胸を躍らせて、車掌の返事を待った。
「そんな乗客は、いなかった。尤《もっと》も、私は、始めから、君の言葉を信用していなかったが……」
「そんなことは嘘だ。アンは待っている」
「嘘ですよ。中国人は、見《み》え透《す》いた嘘を、平気でつくものだ。日本人は、そんなことをしない」
車掌は、そういって、彼の手をすげなく振り切って、向こうへ行ってしまった。
「そんな筈はない……」
彼は、拳《こぶし》を固《かた》めて、自分の膝のうえを、とんとんと叩いた。
「そんな筈はない。あの車掌め、中国人を侮辱する怪《け》しからん奴だ」
彼は、爆発点に達しようとする憤懣《ふんまん》をおさえるのに、骨を折った、孤立無援《こりつむえん》の彼は……。
列車旅行は、ますます不愉快さを高めていった。列車が、駅へつくたびに、彼は、車窓《しゃそう》から顔を出して、もしやアンの乗っている列車が、同じホームについて、待っていないかと、一生けんめいに探したのであった。
そのうちに、こんな考えが、ふと頭の中に浮んだ。
(アンは、おれを捨てていったのではあるまいか。そうでなければ、バーミンガムの次の駅で下りて後から遅れて来るおれの列車を、待っている筈《はず》じゃないか)
アンは、彼を捨ててしまったのであろうか。とにかく、彼のために親切でないことだけは確かである。
(すると、やっぱり、あのボジャック氏というのが、アンの亭主《ていしゅ》であったのか。そしてボジャック氏、すなわちフン大尉という筋書か!)
彼は、胸糞《むなくそ》がわるくなって、ぺっと、床《ゆか》に唾を吐いた。すると、隣りにいたイギリス人が、こっぴどい言葉で、彼の公徳心《こうとくしん》のないことを叱りつけた。
彼は、なんだか、もう生きているのが味気《あじけ》なくなった。
その味気なさは、列車がロンドンに着いてから、更に深刻味《しんこくみ》を加えた。
なぜといって、彼が最後の頼みとしてい
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