しぎに自分の体が、軽くなったように思った。
 彼は、まず手始めに、中国大使館へ出向いた。そして、自分は仏天青《フォー・テンチン》であるが、自分の素姓は、どういうものであるか、果して、大使館参事官であるか、どうかと、たずねた。そして記憶を失ったことや、記憶|恢復《かいふく》後において身近に起った事件を、差支《さしつか》えない範囲で、受附の前にくどくどと説明したのであった。
「大使|閣下《かっか》は、御不在《ごふざい》です。そしてわが大使館には、あなたのような名前の参事官はいません。御返事は、これだけです」
 と、木で鼻をくくるような挨拶《あいさつ》だった。
「本当ですか。本当のことを教えてもらいたいものです。私は気が変ではありませんよ」
「誰でも、そういうよ」
 と、受附子《うけつけし》の言葉が、急に乱暴になって、
「わしは、ロンドンに二十年も在勤しているが、ついぞ、仏天青などというおかしな名前の参事官があった話を聞かないね。家へかえって、内儀《かみ》さんによく相談してみたらいいでしょう」
 折角《せっかく》いい機嫌になった彼は、大使館に於けるこの押し問答によって、また憂鬱《ゆううつ》を取り戻した。なんという頭の悪い、そして礼儀知らずの館員だろう。彼は憤然《ふんぜん》、大使館の門を後にした。そしてもう、こんなところへ二度と来るものかと思った。
 彼が、門を出ていってしまった後で、受附子は、にがにがしい顔をして、
「どうも、空爆のせいで、気が変な人間が殖《ふ》えて来るよ。わしは、この頃、世話ばかりやっているが、あいつが大使館参事官なんて、とんでもない奴だ」
 といいながら、ふと気がついて、書棚《しょだな》から在外使臣名簿《ざいがいししんめいぼ》を取り出して、頁《ページ》をくった。そのうちに、彼は、びっくりしたような声を出した。
「あっ、仏天青、駐仏《ちゅうふつ》大使館参事官! あっ、ここにあったぞ。この頃は、新任の連中が殖えて、一々名前を憶えていられないや。しまったなあ。このまま放って置けば、この次に来たとき、こっぴどい目に会うぞ。よし、追駆《おいか》けてみよう」
 受附子は、ちょっと顔色をかえると、あわてて、外へ飛びだした。
 だが、このときには、もう彼の姿は、どこにも見当らなかった。


     13


 仏天青《フォー・テンチン》は、列車にのって、リバプールに急ぎつつあった。
 駐英大使館では、彼は、大きな侮辱《ぶじょく》をうけた。そして朗《ほがら》かな気持がまた崩《くず》れてしまったのだ。
 この上は、リバプールを通って、ブルートの監獄へいき、そこに残っている彼の素姓調書《すじょうちょうしょ》を見るより外《ほか》なしと考えた。
 十時間の後、彼はリバプールにいった。その夜は、ドロレス夫人の宿に泊めてもらうつもりで、この前の淡《あわ》い記憶を辿《たど》って、見覚えのある露地《ろじ》へ入りこんでいった。
 だが、ドロレス夫人の宿は、見当らなかった。ただ、一軒、入口の硝子《ガラス》が、めちゃめちゃに壊《こわ》れている空家《あきや》が目についた。どうもその家が、ドロレス夫人の宿だったように思うのであるが、入口の壁には、
“立入るを許さず。リバプール防諜指揮官《ぼうちょうしきかん》ライト大佐”
 と、厳《おごそ》かな告示が貼りつけてあった。
 彼は、妙な気持になって、他所《よそ》に宿を求めたのであった。
 一夜は明けた。
 その日こそ、彼は遂《つい》に楽しさにめぐり逢える日が来たと思った。
 監獄生活をしていたなどということは、人に聞かれても、自分に省《かえり》みても、甚《はなは》だ結構でないことだったけれど、今日こそは、その監獄に保存してある調書の中から、知りたいと思っていた彼の素姓を押しだすことが出来るのかと思えば、こんな嬉しいことはなかったのである。
 彼は、車を頼んで、ブルートの町へ急がせた。
「旦那、ブルートの町へ来ましたが、どこへいらっしゃいますね」
「もうすこし先だ。左手に、くるみの森のあるところで下ろしてくれたまえ」
「へい。すると、監獄道《かんごくみち》のところですね」
「ああ、そうだよ」
 彼は、運転手に、心の中を看破《みやぶ》られたような気がした。
「ドイツの飛行機は、監獄なんか狙って、どうするつもりですかね」
「えっ」
「いや、つまり、ブルートの監獄を爆撃して、あんなに土台骨《どだいぼね》からひっくりかえしてしまって、どうする気だろうということですよ」
「なに、ブルートの監獄は、爆弾でやられたのかね」
「おや、旦那、御存知《ごぞんじ》ないのですかい。もう四日も前のことでしたよ。尤《もっと》も、聞いてみれば、監獄の中で、砲弾を拵《こしら》えていたんだとはいいますがね」
「ふーん、そうか。やっちまったのかい」
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