がく》のすこし左へよったところを指し、
「見たところ、傷は殆どなおっているんですけれど、爆弾の小さい破片が、まだ脳の附近に残っているらしいのです。レントゲン――いえ、エックス線の硬いのをかけて、拡大写真を撮らないと、その小破片《しょうはへん》の在所《ありか》がわからないのですって。ですけれど、こうしていつも傍《そば》についているあたしの感じでは、その小破片は、もうすこしで、脳に傷をつけようとしているんだと思います」
「ああ、よくわかりました。奥さんも、御心配でしょう。御主人の御本復《ごほんぷく》を祈ります。じゃあ、ロンドンの中国大使館へは、私の方から取調べ票《ひょう》を送って置きますから」
「はい、どうもありがとうございました」
「じゃあ御大事に。蒋将軍にお会いになったら、どうぞよろしく」
 憲兵は、最後に、仏天青《フォー・テンチン》に挨拶《あいさつ》すると、次のコンパートメントへ移っていった。
 アンと憲兵との会話を、傍で聞いている間に、仏は、異常な興奮を覚えた。
(まだ、アンを疑っていたが、とんでもないことだった。アンは、たしかに、自分の妻にちがいないんだ。なぜって、自分さえ知らない頭部の負傷のことを、その始めっから、現状まで、くわしく心得ているのだ。妻を疑ってすまなかった。もう妻を疑うのは、この辺で、はっきりお仕舞《しまい》にしよう)
 彼は、アンに対し、それを口に出して、謝《あやま》りたくて仕方がなかった。しかし、そんなことをすれば、アンの軽蔑《けいべつ》をうけるばかりで、何の益《えき》にもならないと思ったので、それはやめることにして、只《ただ》心の中で、アンに詫《わ》びた。
 アンと憲兵との話によって、仏は、かねて知りたいと思っていた頭部の負傷の謎が解けたことを、たいへんうれしく思った。
 これは、空爆《くうばく》で、爆弾の破片によってうけた傷であったのか。前額の左のところに、その気味のわるい前途《ぜんと》を持った傷口があったのか。そんなことを考えると、その傷口のことが、俄《にわか》に心配になった。そこで、そっと手をあげて、包帯《ほうたい》のうえから、傷口を抑《おさ》えようとした。
「およしなさい、あなた。触っちゃ、いけません。脳の傷は恐しいのです。刺戟《しげき》を与えることは、大禁物《だいきんもつ》ですわ」
 そういって、アンは、仏の手をおさえて、彼の膝へ戻した。
「おい、アン」
「なあに、あなた」
「お願いだ、おれが、この頭部に負傷したときのことを、もっと詳《くわ》しく話してくれないか」
「ああ、そのことなの」アンは、仏の顔を見上げ、「いつでも、話をしてあげますわ。でも、今はよしましょう。あなた、昂奮《こうふん》していらっしゃるようね。すこしおやすみになったらどうです。あたしも、なんだか、列車にのって安心したせいか、急に睡《ねむ》くなって、ほらこのとおり眼がしょぼしょぼなのよ。ほほほほ」
 なるほど、アンの眼は睡そうであった。仏は、見れば見るほど、子供のように可愛いところのあるアンを、これ以上、彼の我儘《わがまま》のため疲らせることは気がすすまなかったので、
「アンよ、おやすみ。そのうち、おれも睡くなるだろうよ」
 そういって、仏は、アンの額に、軽く唇をつけた。アンは、早《は》やもう目をとじていた。
 あと、十時間だ。
 仏は、アンに睡られてしまって、俄に退屈になった。窓外《そうがい》を見ると、空は相変らず、どんよりと曇っている。畠には、小麦の芽が、ようやく三、四|吋《インチ》伸びている。ようやく春になったのである。
 仏天青は、またアンの方を見た。アンは、本当に寝込んでしまったらしい。すうすうと、安らかな鼾《いびき》をかいている。そして、弾力《だんりょく》のある小さい唇の間から、白い歯が、ちらりと覗《のぞ》いていた。
 仏は、立ち上ると、アンのオーバーの前をあわせ、そしてその襟《えり》を立ててやり、席に戻った。
 色のぬけるように白い、鳶色《とびいろ》の髪をもった彼の妻!
(おれは中国人だが、アンは中国人じゃなくて、白人だ。白人にもいろいろある。伊国《イタリー》人だろうか、イギリス人だろうか。いや、イギリス人には、こんな美人はいない。躯の小さいところといい、相当肉づきのいいところといい、ひょっとしたらフランス人じゃないかなあ)
 彼は、そんなことを考えながら、妻君《さいくん》の寝顔を、飽《あ》かず眺《なが》めていた。


     8


 列車の窓から、マンチェスター市の空を蔽《おお》う煤煙《ばいえん》が、そろそろ見えてきた。
 アンは、まだ眠っている。
 仏天青《フォー・テンチン》は、まだ眠る気になれなかった。そのとき彼は、ポケットの中に、新聞紙があったのを思い出した。それは彼が今着ている中国服を包んであっ
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