駅に下りて、仏天青《フォー・テンチン》はおどろいた。こんなものものしい警戒は、はじめて見た。
“中国大使館参事官仏天青氏を御紹介す。アーガス博士殿”
 というドクター・ヒルの紹介状が、とんだところで効《き》き目をあらわして、仏は、無事に駅の階段を、町へ降りることが出来た。
「アーガス博士の鑑識《かんしき》研究所へやってくれないかね」
 駅の前に待っているタクシーの運転手に話しかけると、黙って、隣りを指した。
 タクシーの隣りには、馬車があった。老人の馭者《ぎょしゃ》が、この喧噪《けんそう》の中に、こっくりこっくり居眠りをしていた。馬車とは愕《おどろ》いたが、
「アーガス博士の鑑識研究所へいってくれるかね」
 と、仏が大きい声で怒鳴《どな》ると、馭者の老人は、やっと目を覚ました。そして二三度、丁寧に聞き返した後で、さあ乗って下さいといった。
 馬車は、雑閙《ざっとう》する町を後にして、山道にかかった。
「爺さん、鑑識研究所だよ」
「わかっていますよ。鑑識研究所は、この山のうえだ。あと三十分かかるよ」
「なあんだ、山の上に在《あ》るのか」
 馬車にゆられていくほどに、仏天青は、眼下に開けるハンバー湾のものものしい光景に、異常な興味を覚えた。
 河口《かこう》には、たしかに防潜網《ぼうせんもう》を吊っているらしい浮標《ブイ》が、夥《おびただ》しく浮び、河口を出ていく数隻《すうせき》の商船群《しょうせんぐん》の前には、赤い旗をたてた水先案内《みずさきあんない》らしい船が見えるが、これは機雷原《きらいげん》を避《さ》けていくためであろう。またはるかに港外には駆逐艦隊《くちくかんたい》が活発《かっぱつ》に走っていた。
(ドイツ軍の上陸作戦を、極度《きょくど》に恐れているのだな)
 仏《フォー》は、河口の異風景《いふうけい》に気を取られているうちに、馬車は、いつの間にか、小さい山を一つ登って、鑑識研究所の前についた。
 仏は、門衛《もんえい》に、刺《し》を通じた。
 門衛は、紹介状の表を見て、本館へ電話をかけた。
「所長は、生憎《あいにく》出張中ですが、今夜あたり、ここへお戻りです。副長《ふくちょう》からのお話ですが、明朝《みょうちょう》、もう一度、御出で願うか、それとも御急ぎなら、所に附属している宿泊所《しゅくはくじょ》で、お待ちになってはということでございますが、どっちになさ
前へ 次へ
全42ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング