急ぎつつあった。
駐英大使館では、彼は、大きな侮辱《ぶじょく》をうけた。そして朗《ほがら》かな気持がまた崩《くず》れてしまったのだ。
この上は、リバプールを通って、ブルートの監獄へいき、そこに残っている彼の素姓調書《すじょうちょうしょ》を見るより外《ほか》なしと考えた。
十時間の後、彼はリバプールにいった。その夜は、ドロレス夫人の宿に泊めてもらうつもりで、この前の淡《あわ》い記憶を辿《たど》って、見覚えのある露地《ろじ》へ入りこんでいった。
だが、ドロレス夫人の宿は、見当らなかった。ただ、一軒、入口の硝子《ガラス》が、めちゃめちゃに壊《こわ》れている空家《あきや》が目についた。どうもその家が、ドロレス夫人の宿だったように思うのであるが、入口の壁には、
“立入るを許さず。リバプール防諜指揮官《ぼうちょうしきかん》ライト大佐”
と、厳《おごそ》かな告示が貼りつけてあった。
彼は、妙な気持になって、他所《よそ》に宿を求めたのであった。
一夜は明けた。
その日こそ、彼は遂《つい》に楽しさにめぐり逢える日が来たと思った。
監獄生活をしていたなどということは、人に聞かれても、自分に省《かえり》みても、甚《はなは》だ結構でないことだったけれど、今日こそは、その監獄に保存してある調書の中から、知りたいと思っていた彼の素姓を押しだすことが出来るのかと思えば、こんな嬉しいことはなかったのである。
彼は、車を頼んで、ブルートの町へ急がせた。
「旦那、ブルートの町へ来ましたが、どこへいらっしゃいますね」
「もうすこし先だ。左手に、くるみの森のあるところで下ろしてくれたまえ」
「へい。すると、監獄道《かんごくみち》のところですね」
「ああ、そうだよ」
彼は、運転手に、心の中を看破《みやぶ》られたような気がした。
「ドイツの飛行機は、監獄なんか狙って、どうするつもりですかね」
「えっ」
「いや、つまり、ブルートの監獄を爆撃して、あんなに土台骨《どだいぼね》からひっくりかえしてしまって、どうする気だろうということですよ」
「なに、ブルートの監獄は、爆弾でやられたのかね」
「おや、旦那、御存知《ごぞんじ》ないのですかい。もう四日も前のことでしたよ。尤《もっと》も、聞いてみれば、監獄の中で、砲弾を拵《こしら》えていたんだとはいいますがね」
「ふーん、そうか。やっちまったのかい」
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