しぎに自分の体が、軽くなったように思った。
 彼は、まず手始めに、中国大使館へ出向いた。そして、自分は仏天青《フォー・テンチン》であるが、自分の素姓は、どういうものであるか、果して、大使館参事官であるか、どうかと、たずねた。そして記憶を失ったことや、記憶|恢復《かいふく》後において身近に起った事件を、差支《さしつか》えない範囲で、受附の前にくどくどと説明したのであった。
「大使|閣下《かっか》は、御不在《ごふざい》です。そしてわが大使館には、あなたのような名前の参事官はいません。御返事は、これだけです」
 と、木で鼻をくくるような挨拶《あいさつ》だった。
「本当ですか。本当のことを教えてもらいたいものです。私は気が変ではありませんよ」
「誰でも、そういうよ」
 と、受附子《うけつけし》の言葉が、急に乱暴になって、
「わしは、ロンドンに二十年も在勤しているが、ついぞ、仏天青などというおかしな名前の参事官があった話を聞かないね。家へかえって、内儀《かみ》さんによく相談してみたらいいでしょう」
 折角《せっかく》いい機嫌になった彼は、大使館に於けるこの押し問答によって、また憂鬱《ゆううつ》を取り戻した。なんという頭の悪い、そして礼儀知らずの館員だろう。彼は憤然《ふんぜん》、大使館の門を後にした。そしてもう、こんなところへ二度と来るものかと思った。
 彼が、門を出ていってしまった後で、受附子は、にがにがしい顔をして、
「どうも、空爆のせいで、気が変な人間が殖《ふ》えて来るよ。わしは、この頃、世話ばかりやっているが、あいつが大使館参事官なんて、とんでもない奴だ」
 といいながら、ふと気がついて、書棚《しょだな》から在外使臣名簿《ざいがいししんめいぼ》を取り出して、頁《ページ》をくった。そのうちに、彼は、びっくりしたような声を出した。
「あっ、仏天青、駐仏《ちゅうふつ》大使館参事官! あっ、ここにあったぞ。この頃は、新任の連中が殖えて、一々名前を憶えていられないや。しまったなあ。このまま放って置けば、この次に来たとき、こっぴどい目に会うぞ。よし、追駆《おいか》けてみよう」
 受附子は、ちょっと顔色をかえると、あわてて、外へ飛びだした。
 だが、このときには、もう彼の姿は、どこにも見当らなかった。


     13


 仏天青《フォー・テンチン》は、列車にのって、リバプールに
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