ら、彼は、このホテルに逗留《とうりゅう》することとなったのである。
休養だ! そして睡眠だ!
彼は、ただもう昏々《こんこん》と眠った。空襲警報が鳴っても、ボーイが、よほど喧《やかま》しくいわないと、彼は、防空地下室へ下りようとはしなかった。地下室の中でも、彼は、遠方から地響《じひびき》の伝わってくる爆撃も夢うつつに、傍《かたわら》から羨《うらや》ましがられるほど、ぐうぐうと鼾《いびき》をかいて睡った。
三日間の休養が、彼を非常に元気づけた。彼は、アンに捨てられたことを自覚し、そしてアンのことを思い切ろうと決心した。そんなことが、一層彼の頭の中から、苦悩を取り去ったものらしい。
四日目、五日目は、ドイツ機の空襲が、ようやく気に懸《かか》るようになった。彼はようやく常人化《じょうじんか》したのであった。
六日目は、朝から市中へ出て、爆撃の惨禍《さんか》などを見物して廻った。爆撃されているところは、煉瓦《れんが》などが、ボールほどの大きさに砕《くだ》かれ、天井裏《てんじょううら》を露出《ろしゅつ》し、火焔《かえん》に焦げ、地獄のような形相《ぎょうそう》を呈《てい》していたが、その他の町では、土嚢《どのう》の山と防空壕の建札《たてふだ》と高射砲陣地がものものしいだけで、あとは閉《しま》った店がすこし目立つぐらいで、街はやっぱり華美《かび》であった。
防毒面《ぼうどくめん》こそ、肩から斜めに下げているが、行きずりの女事務員たちは、あいかわらず溌剌《はつらつ》として元気な声をたてて笑っていたし、牝牛《めうし》のように肥えたマダムは御主人にたくさんの買物を持たせて、のっしのっしと歩いていた。彼らは、ロンドンの空一杯に打ちあげられた阻塞気球《そさいききゅう》を、ひどく信頼しているのか、それとも、自分だけには、ドイツ軍の爆弾が命中しないと信じているか、どっちかであるように見えた。
その日、半日の散歩で、彼は自分が、世の中から忘れられた人であることに気がついて、それがどうも気になってたまらなかった。やっぱり彼は、何を置いても、自分の素姓《すじょう》を知ることが先決《せんけつ》問題であると、そこに気がついた。
今や元気と常識とを取り戻した彼は、勇躍《ゆうやく》して、その仕事《ビジネス》についた。また新たに、生きている張合《はりあ》いといったものが感じはじめられた。彼は、ふ
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