逞《たくま》しい青年だった。ボジャック氏は、驚いて、座席から、ぴょんととびあがった。
「そ、そのままで、どうぞ」
 そういった仏天青は、両腕に抱えていたサンドウィッチだの南京豆だのを、座席のうえに置いた。それから、アンの方へ向いて、
「私は、さよならを言いに来たのですよ。アン! そしてフン大尉?」
 そういうと、男は、怪訝《けげん》な顔をして、自分の頬へ手をやった。
「あなた。なにを言っていらっしゃるの、どうも変ね」
 アンは、立ち上って、仏の腕に縋《すが》りついた。
 仏は、アンの身体を、ふり放そうとしたが、それはうまくいかなかった。アンの力というよりも彼の方に、新しい疑惑《ぎわく》が湧いてきたが故《ゆえ》だった。
(フン大尉と本名を呼んでやったのに、ボジャック氏は、変な顔をしたが、べつに愕《おどろ》きはしなかったぞ)
 彼の当は外《はず》れたのだった。ボジャック氏は、フン大尉ではないらしい。果して、そうかどうかは、まだはっきりしないが……
「あなた、なに仰有《おっしゃ》るのよ。ボジャック氏に笑われますわよ。うちの人は、監獄にいる間に、頭がすこしどうかしてしまったのよ。御免《ごめん》なさい、ボジャックさん」
「わたしは、べつに何でもありませんがね。御亭主さん、気が立っているようだな」
 相手の二人の間には、今もまだ芝居めいたものが感じられたが、そうまで言われて、仏天青は、これ以上、すね者扱《ものあつか》いされるのがいやだった。それは、彼の短気というか、潔癖《けっぺき》のせいであったろう。とにかく、彼は機嫌を直したことにして、座席に座った。ボジャック氏は、どうか彼の素姓《すじょう》については内密に願うと、くどくどと歎願《たんがん》したのち、ずっと後方にあるという彼の座席へ帰っていった。


     10


「あの方、フランスにいたとき、パン屋の店を出していた人よ。リバプールで、行《い》き逢《あ》ったんですけれど、警官に何かと間違えられて、桟橋《さんばし》から飛びこんだところまで、実はあたしが見ていたのよ。でも、可哀そうでしょう。あたしは、何も喋《しゃべ》りたくはなかったから、何も関係ないと、いっただけなのよ」
 アンは、そういって弁解《べんかい》したのち、いろいろと、仏《フォー》の機嫌《きげん》をとった。
「さあ、機嫌をお直しになって、買ってきていただいたもの、
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