みとった。
(フン大尉か)と、仏は口の中で間諜の名をくりかえした。
 アンは、不機嫌だった。
「あなた。さっきの防空壕のこともあるんですから、あまりあたしたちにとって不利な発言は、なさらないようにね」
「不利な発言? おれがいま駅員と話をしたことが、それだというんだね」
 アンは、黙ってうなずいた。
「なあに、大丈夫さ。でも君が心配するなら、以後は、口を慎《つつし》もう」
「それがいいわ。お互《たがい》のためですもの」
 アンは、機嫌をなおして、甘えるように、仏の腕にすがりついた。
 列車はホームについていた。大時計を見ると、今発車という間際《まぎわ》だった。仏は愕《おどろ》いて、アンを抱《かか》えるようにして十三号車に飛びのった。


     7


 リバプールからロンドンまでは、四百数十キロの道程《みちのり》があった。特別急行列車は、この間を十時間で走ることになっていた。だから、午後七時ごろには、ロンドン着の筈であるが、今は、ドイツ機の空襲が頻繁《ひんぱん》なので、いつどこで停車するかわからず、ひょっとすると、ロンドン入りは、翌朝になるかもしれないという車掌《しゃしょう》の談《はなし》であった。
 アンと仏《フォー》とは、十三号車の中の、一つのコンパートメントを仲良く占領することが出来た。
 この十三号車は、わりあいすいていたようである。誰も、この空襲下に、わざと縁起《えんぎ》のよくない座席を選ぶ者もなかったからであった。
「あなたは、黙っていらしてよ。女が出る方がすらすらといきますからね」
 アンが、そういったのは、車内に於ける乗客取調べのことであろう。もちろん、仏にとっては、そんな煩《わずら》わしいことに、頭を使いたくなかったので、万事《ばんじ》アンに委《まか》せることに同意した。
 列車憲兵《れっしゃけんぺい》が、廻ってきた。
「ロンドンへは、どういう用件でいかれますかね」
 憲兵は、記名の切符を、アンへ戻しながら、油断のない目で、アンを見つめた。
「夫が、このとおり、空襲で頭部《あたま》に負傷いたしまして、なかなか快《よ》くならないんですの。早く名医《めいい》の手にかけないと、悪くなるという話ですから、これからロンドンへ急行するんです」
「ほう、それは、お気の毒ですね。負傷は、どのあたりですか」
「ちょうど、このあたりです」
 と、アンは、前額《ぜん
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